日本文化考

正法眼蔵第三十一は「諸悪莫作」の巻。七仏通戒の偈にある「諸惡莫作、衆善奉行、自淨其意、是諸佛教(惡を作すこと莫れ、衆善奉行すべし、自ら其の意を淨む、是れ諸佛の教なり)についての解釈を示したもの。これは普通には、「諸悪をなすなかれ、衆禅を行いなさい」というふうに読めるが、じつはそんなに単純なものではない、もっと深い意味があると説く。じっさい、白居易はそのように解釈して厳しく批判された、と言って、この言葉の深い意味を説くのである。

正法眼蔵第三十は「看経」の巻。看経とは経を読むことをいう。経を読むことの修行上の意義は何か、また、実際に看経の儀式をするときはどのように行うべきかについて説かれる。道元は、看経そのものにはたいした意義を認めていないというふうに、普通は受け取られている。しかしそれは、お経の字面だけを読んでも意味がないので、お経の真に意味するところを感得すべきだということを意味している。お経に込められた仏祖たちの真の教えを体得することが看経の意義だというのである。

正法眼蔵第二十九は「山水経」の巻。その趣旨は、さとりの境地を山水にたとえたもの。さとりを自然にたとえたところは「渓声山色」に通じる。冒頭で「而今の山水は、古物の道現成」なりと言って、われわれを取り巻いている山水つまり自然こそ、仏道が現成した姿であると説く。

正法眼蔵第二十八は「礼拝得髄」の巻。礼拝得髄とは、礼拝して髄を得るということだが、これは禅宗の二祖慧可の斷臂得髓の故事にもとづく。善き師を求めることの大事さを説いたものである。慧可が達磨を礼拝し、かつ斷臂して髄を得たように、我々修行者も師を礼拝して髄を得るべきだというのである。髄とは神髄のことで、仏教の神髄すなわちさとりの境地をいう。

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昨年の十月に、国立能楽堂開設四十周年を記念する演能が催され、金剛流の能「檜垣」が演じられた。その様子をNHKが先日(二月二十五日)に放送したのを見た。シテは昨年人間国宝になった金剛永謹、ワキは、これも人間国宝の宝生欣哉だった。


正法眼蔵第二十七は「夢中説夢」の巻。夢中説夢とは文字通りには「夢の中で夢を説く」という意味だが、これを証中見証と言い換えているので、さとりを夢にたとえているのがわかる。ではなぜさとりを夢にたとえるのか。夢はふつう非現実的なものと思われているので、その夢にさとりをたとえることは、さとりを非現実的なものと考えることになるのではないか。そういう疑問が当然おきるが、道元は、この場合の夢とは「大夢」であって、ふつうに思われているような夢ではない、「夢然なりとあやまるべからず」というのである。

正法眼蔵第二十六は「佛向上事」の巻。仏向上の向上とは、その先という意味。だから仏向上は、仏の更にその先の境地ということになる。人は仏になることを修行の目的とするが、仏になったらなったで、更にその先を求める、それが仏向上という言葉の意味である。この巻は、そうした意味での「仏向上事」について説く。

正法眼蔵第二十五は「渓声山色」の巻。諸仏がそれぞれさとりを開いた経緯を記しながら、さとりとは理屈ではなく、体験によってもたらされると説く。それも突然生じるような体験だ。ある時、あることをきっかけに、突然悟りを得る。これは知識の賜物ではなく、また得ようと努力・修行して得られるものではない、無論修行は大事だが、修行が則さとりにつながるわけではない。さとりというのは、わけもなく突然やってくるのである。その典型例として道元は、偉大な詩人として知られる蘇軾の体験をあげる。蘇軾はあるとき、渓声山色を聞いて、忽然さとりを得るところがあった。その蘇軾の例に倣い、悟りを得る秘訣を道元は「渓声山色」という言葉で表したのである。

「画餅」とは、画に描いた餅という意味である。ふつう、画に描いた餅は食えぬという。だから飢えを充たすことはできない。飢えを充たすのは、現実の餅である。現実の餅が本当の餅であり、画に描いた餅は影のような物に過ぎない、というのが常識的な考えである。道元はそれに疑義を呈し、画餅と現実の餅とは、まったく別のもので互いに相いれざるものではなく、餅という概念的な本質を共有するのだと主張する。その主張が成り立つ所以を述べたのが、「画餅」と題する章である。「画餅」は「わひん」と読むように指示されているが、「がへい」と読んで差し支えない。

正法眼蔵第二十三「都機」の巻。都機は「つき」と読む。「月」のことである。この巻は、月を題材にして、悟りの境地と、その内実たる真理について語る。月は心と同定され、あるいは心の象徴とされ、その心が悟りの境地に達したことを、月が円成することにたとえる。その円成は、いきなり実現されるのではなく、実は伏線がある。月は本来丸いものなのだが、人目には満ち欠けするように見える。しかし満ち欠けするように見えるのは、見かけのことなのであって、本当は、月は常に丸い。その丸さが月の本来の姿であって、満ち欠けするように見えるのは仮象にすぎない。それと同じように、人の心は本来、仏性を備えたものである。ところが、日常においては、煩悩にさいなまれている。それは心の仮の姿であり、それを脱して本来の姿、それをここでは真法身と呼んでいるが、その真法身に目覚めるというのが悟りの内実である。そんな趣旨のことが、この巻では、とりあえず説かれているのである。

正法眼蔵第二十二は「全機」の巻。全機とは、存在するものの有している一切のはたらきといった意味である。機という言葉は、機関とか機用という形でもつかわれ、からくりとかしかけ、はたらきといった意味がある。それに全がついて、すべてのはたらきあるいは一切のはたらきということになる。どんなはたらきか。存在する、というはたらきである。存在とは、生死の全体を含む。そこで、全機についての説は、生死をめぐるものとなる。この巻は、実は生死について説いたものなのである。文章としては非常に短いが、味わい深いものがある。

正法眼蔵第二十一は「授記」の巻。授記という言葉は仏教用語で、特別の意味を持たされている。岩波の仏教辞典には「過去世において過去仏が修行者に対して未来の世において必ず仏になることを予言し保証を与えること」とある。言い換えれば、過去の時代における修行の結果として、未来における成仏が確約されるということである。だから、成仏は一代で完結するものではない、ということになる。過去世の因縁が今の世の成仏の前提となっているのである。

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今年のNHK新春能狂言は、連吟「四海波」、和泉流狂言「松囃子」、金春流能「猩々」だった。狂言は名古屋に本拠を置く野村又三郎一座が演じ、能のほうは金春流宗家金春安明がシテを演じていた。この曲は猩々舞という特殊の舞が見どころである。もともとは前後二段からなる複式夢幻能だったものが、前段が省略されて後段だけの半能形式で演じられることとなり、そのこともあって、舞がもっぱらの見せ所となっている。

正法眼蔵随聞記の第六(最後の巻)は、道元の在宋中の出来事を語ることから始める。師の如浄が道元を侍者として弟子たちに紹介したいといい、その際に外国人であるが才能のある人だと紹介するつもりだといった。それを道元は辞退した。その理由は、外国人の自分が侍者になることは、中国に人材が少ないからだと思われかねず、それは自分にとって本意ではなく、恥ずかしいことだと言うのである。こんなことを巻の冒頭に置いたのは、道元の謙虚な性格を強調したいからか。

正法眼蔵随聞記第五の後半は、前半に引き続き、世俗の因縁や自分自身へのこだわりを捨て、ひたすら仏道に励むべしとの主張を展開する。十三では、自己の思い込みを捨て師匠の言葉に従えと説く。「我が心にたがへども師の言ば聖教の言理ならば全く其に随て、本の我見をすててあらためゆくべし」というのである。師の言葉が納得できないと思うのは、それが耳に心地よく聞こえないからであるが、「我為に忠有べきことばは必ず耳に違するなり。違するとも強ひて随ひ行ぜば畢竟じて益有べきなり」なのである。

正法眼蔵随聞記第五は、これもやはり心身放下から始まる。「仏法の為には身命を惜むことなかれ。俗猶を道の為には身命をすて、親族をかへりみず忠を尽し節を守る。是を忠臣とも云ひ賢者とも云ふなり」というのである。道元がかくもくりかえし心身放下にこだわるのは、世俗の未練にほだされて仏道をないがしろにする修行者が絶えないという現実があるからだろう。だから、「只身心を倶に放下して、仏法の大海に廻向して、仏法の教に任せて、私曲を存ずることなかれ」と口うるさいほど繰り返すのである。

正法眼蔵随聞記第四は、これも仏道修行の心得を説くことから始まる。その心得の最も肝要なものは、自己への執着を捨てることである。自己への執着を捨てることは、心身放下という言葉ですでに語られていたが、ここでは「自解を執するなかれ」という言葉で表される。「広く知識をも訪ひ、先人の言葉をも尋ぬべきなり」というのである(第四の一)。

正法眼蔵随門記の第三は、心身放下ということから始まる(第三の一)。心身放下は心身脱落と似た概念である。心身脱落は、身も心も超脱してあらゆる事柄に執着しないという境地を現わした言葉である。それがさとりにつながると言っている。というよりか、さとりの境地そのものである。一方、心身放下は、同じく心と体を捨てる(超脱する)という意味であるが、それがすなわちさとりの境地だとは言っていない。悟りに至るために必要な前提だというような位置づけである。この節の冒頭部分の言葉「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし」とは、心身放下ということは、そういう事情(仏道に入るための前提だということ)を言うのだと説いているのである。

正法眼蔵随聞記第二の後半は、命をおしまず仏道の修行にはげむべきとする文からなる。その多くは仏道修行のための心得である。まず、十四は、下根劣器の人でも志次第でさとりを得ることができると説く。大宋国では、数百人もいる修行僧の中でまことの得道得法の人はわずかに一人二人といった有様だったが、それは志の深い人が少なかったからである。「真実の志しを発して随分に参学する人、得ずと云ふことなきなり」なのである。「若し此の心あらん人は、下智劣根をも云はず、愚痴悪人をも論ぜず、必ず悟りを得べきなり」。それゆえ、「返返も此の道理を心にわすれずして、只今日今時ばかりと思ふて時光をうしなはず、学道に心をいるべきなり。其の後は真実にやすきなり。性の上下と根の利鈍は全く論ずべからざるなり」。

正法眼蔵随聞記第二は、只管打坐と並んで道元思想の中核的な概念である心身脱落についての評釈から始まる(第二の一)。これを懐奘は「心身を捨つる」ことだと言っている。おそらく、道元自身がそう言っていたのであろう。心身脱落の概念の内実を知るうえで貴重な言及である。心身を捨てることの具体的な内容は、世情を離れ、「悪心を忘れ我が身を忘れて、只一向に仏法の為にすべき」ということである。単に自分の個人的な事柄を超脱するだけではなく、仏法に専念することが心身脱落の意味だというのである。

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