正法眼蔵第六十は「三十七品菩提分法」の巻。「三十七品菩提分法」とはさとりに至る三十七の道という意味。三十七品は、仏教用語としては、三十七道品と呼ばれるのが普通。これは仏教の根本思想である四諦のうち、道諦についての詳細な教えであり、悟りを得るための修行の階梯を意味する。修行の階梯といえば、大乗仏教では、華厳経の中で十地品という形で説かれているが、三十七道品は、原始仏教における修行の階梯とされる。道元が、十地品ではなく、三十七道品について説くこの巻は、示衆の対象が、これから修行に入る出家者だということと関係する。出家者に向かって修行の心得を説くにあたって、原始仏教における釈迦の言葉をストレートに伝え、かれらに出家と修行への覚悟を促したものと考えられる。
日本文化考
正法眼蔵第五十九は「家常」の巻。家常とは家庭における日常のことをいう。現代の言葉でいう日常茶飯事というものに近いニュアンスの言葉である。その日常茶飯事を通じて、仏教の修行が行われるということを、道元はこの巻で言っている。仏教の修行は、なにも特別な行いではなく、日常茶飯事を通じて行われるべきだというのである。

観世清和が主宰する清門別会の第二回公演が、今年の六月銀座の観世能楽堂で催された。その様子をNHKが放送した。「三輪」全曲と「安宅」の一部である。「三輪」は清和がシテを演じ、安宅は息子の三郎太がシテを演じた。ここでは「三輪」を取り上げたい。
正法眼蔵第五十八は「眼晴」の巻。眼晴は、もともとは目玉という意味だが、そこから転じて要点を見抜くとか真実を見極めるといった意味を持つ。真実を見極めるとは、道元の場合さとりを得るとほぼ同義である。眼晴は、さとりを得るためには真実を見極める力が必要だという意味である。
正法眼蔵第五十七は「遍参」の巻。遍参とは、善智識を求めてあまねく訪ねまわること。道元はこの巻を次の言葉「佛の大道は、究竟參徹なり。足下無絲去なり。足下雲生なり」で始めているが、これは、仏祖の大道は徹底的に善智識を訪ねて参学することにつきる、その行脚の姿は、足下に一糸なくして去り、足下に雲を生じる趣ありといった意味である。つまり、遍参についての伝統的な捉え方を確認しているのである。
正法眼蔵第五十六は「見仏」の巻。見仏とは、仏を見る、あるいは仏にまみえるということである。その仏を見るということの真相はいかなることか。それについて道元は詳細に説いていく。まず冒頭で見仏という言葉を定義し、それについて法華経から見仏について説いた言葉を引用し、具体的な解説を加える。したがってこの巻は、大部分が法華経への注釈という体裁を呈している。その後、師如浄及び趙州眞際大師の言葉を引用し、それに注釈を加えて結びとしている。
正法眼蔵第五十五は「十方」の巻。十方とはもともと方角をあらわすことばで、東西南北の四方と東南、西南、東北、西北の四維に上下を加えた十の方角をさす。十の方角とはあらゆる方角という意味である。そのあらゆる方角に衆生が住んでいる。その衆生が住むあらゆる方角を十方世界とか尽十方界という。要するに十方とはすべての世界のことをいう。そのすべての世界はまた仏国土である、というのが、道元のこの巻のテーマである。
正法眼蔵第五十四は「洗浄」の巻。洗浄とは文字通り心身を洗い清めること。それを道元は不染汚と言っている。この巻は次のような言葉で始まるのである。「佛祖の護持しきたれる修證あり、いはゆる不染汚なり」。心身を洗い浄めるというテーマは、「洗面」でも説かれていた。洗面では顔や手を洗うことや歯を磨いて口腔内を清潔に保つことが強調されていたが、この「洗浄」の巻では、手足の爪を切ることと大小便の後始末が強調されている。大小便をしたあとに、その部分を清潔にすることや厠(便所)における礼儀などがことこまかく指示される。その説くところは微細をきわめ、大小便に対する道元の異常なこだわりを感じさせる。
正法眼蔵第五十三は「梅華」の巻。道元はさとりの境地を「渓声山色」とか「画餅」といった天然の事象や身近なものにたとえるのが好きだったが、この巻で取り上げる梅華もさとりの境地をあらわした言葉である。ただ、その言葉をさとりの境地にたとえて説いたのは、道元の師匠如浄であって、道元はその如浄の言葉をたびたび取り上げて、その意義を解説しているのである。増谷文雄によれば、仁治三年(1242)の八月に「如浄和尚語録」が宋からもたらされ、これを道元は繰り返し読んだという。それを読んでの感動をこの巻の中で吐露しているということらしい。
正法眼蔵第五十二は「仏祖」の巻。仏祖とは釈迦牟尼の教えを面授された人々をいう。面授は仏祖から仏祖へとなされる。その一連のつながりを道元はこの巻のなかで一覧表の形で示している。第一番目に毘婆尸佛大和尚をあげているが、これは歴史上に実在した人物ではなく、仏教の教えをあらわす抽象的な存在である。その毘婆尸佛大和尚を含めて六人を釈迦牟尼と合わせ七仏とし、それを仏祖の始まりとする。実在の人物の系譜は、釈迦牟尼の弟子摩訶迦葉大和尚に始まり、龍樹、達磨、慧能、洞山といった偉大な仏教者を経て道元にいたる。道元が自分を仏祖の系譜の中にしっかり位置付けているのがこの巻の眼目である。
正法眼蔵第五十一は「面授」の巻。面授とは、師が弟子に面と向かって伝授することをいう。あるいは弟子が師から目の当たりに伝授されることをいう。伝授の内容は正法眼蔵である。正法眼蔵が面授されるということは、師と弟子との関係は、直接的なものでなければならないということを意味する。正法眼蔵は、経典を読むだけでは得られず、また、昔の聖者の教えを聞くことでは得られない。師(仏祖)から直接伝授されるのでなければならない。
正法眼蔵第五十は「洗面」の巻。洗面とは文字通り顔を洗うことである。その顔を洗うことで、心身清浄を代表させている。悟りの境地を目指すには心身ともに清浄でなければならない、という意味をこの言葉に込めているのである。心身清浄は、なにも洗面だけの問題ではない。あらゆる機会をとらえて心身全体を清浄に保たねばならぬ。その中には嚼楊枝も含まれる。楊枝を使って口腔内を清潔にしておかねばならぬ。口から悪臭を漂わせていては、さとりを目指すもない。この巻は、前半で洗面について、後半で嚼楊枝について、その意義やら心得についてことこまかく説くのである。
正法眼蔵第四十九は「陀羅尼」の巻。陀羅尼というと、真言密教などで行われる呪文を想起するのが普通だろう。岩波仏教辞典も陀羅尼を「教法や教理を記憶し保持するために用いた呪文」と書いてある。その記憶とか保持という面に即して「能持」とか「総持」と訳される。だが、陀羅尼を呪文にとどめず、もっと広義に捉える見方もある。増谷文雄は、「これを保持することによって、善法を散逸せしめず、悪法を遮止することを得るもの」と定義し、その具体的なものとして、聞陀羅尼、義陀羅尼、呪陀羅尼、忍陀羅尼」の四つをあげている。呪文は陀羅尼の一つであって、呪文だけが陀羅尼ではないというのだ。
正法眼蔵第四十八は「法性」の巻。法性という言葉は、法華経に出てくる「諸法実相」とほぼ同じ意味の言葉。あらゆる存在の存在たる本質をさす。岩波の仏教辞典には、「事物の本質、事物が有している不変の本性を意味する」とある。道元がこの言葉を使う時には、単に存在の本質といったことだけではなく、すべての存在には仏となるべき資質が備わっていると考えているようである。かれはこの巻の後半を馬祖の批判にあてるのであるが、それは馬祖が法性を単に存在の本質としてとらえ、存在に本来備わっている仏となるべき素質を無視していると考えるからだ。そんなわけだから、道元がいうところの法性は仏性に非常に近い概念である。
正法眼蔵第四十七は「仏経」の巻。仏経とは仏教の経典のことをいう。その経典を道元はここでは仏教修行者がもっとも大事にすべきものだと説く。仏教の修行はまずお経を読むことを優先すべきだというのである。このようなお経優先の思想は、それ以前の道元の姿勢との違いを感じさせる。道元はお経を読むことを看経と呼んでいるが、その看経より只管打座を優先してきたのではないか。仏教修行は只管打坐に尽きるという道元の考えは、弟子の懐奘が隋聞記のなかで繰り返し強調しているし、また道元自身も只管打坐をもって仏教修行の眼目だと言ってきた。それがこの巻では、お経を読むことこそが仏教修行の王道だと断言するのである。われわれはそこに、道元の心境の変化のようなものを見る。道元がこの巻を示衆したのは、43歳の時で、吉峰寺においてであった。この時期の道元は非常に活発な布教活動をしており、正法眼蔵所収の巻の多くがこの時期に書かれている。盛んな布教にあたっては、弟子たちに只管打坐を進めるとともに、仏教経典を読むことも進めたに違いない。そうした事情が働いて、お経の意義をことさらに強調したのではないか。
正法眼蔵第四十六は「無情説法」の巻。無情は有情に対する。有情が心をもった生きとしいけるものをいうのに対し、無情は心をもたない草木瓦礫などの無生物のことをいう。その無生物たる無情が説法するとはどういうことか。それを考えることで、説法の意義を明らかにすることがこの巻の目的である。要するに、説法があるということを前提としたうえで、その説法とは何かについて原理的な考察を加えるのである。
正法眼蔵第四十五は「密語」の巻。密語は一般的な仏教語ではなく、伝灯録中の雲居山弘覺大師の言葉からとったもの。そこには、「世尊に密語有り、迦葉覆藏せず」とある。そこでこの言葉の意味するものは何か、について道元なりの解釈をするというのがこの巻の趣旨である。
正法眼蔵第四十四は「仏道」の巻。仏道という言葉は仏教とほぼ同義、要するに仏の教えのことである。その教えはただ一つであり、禅宗とかいった宗派を唱えるのは外道であると主張する。近年はその禅宗の中でも、法眼宗とか臨済宗とかいわゆる五派と称されるものが横行している。これもまた外道であるから排斥せねばならぬ。本来の仏道は、釈迦牟尼が説いたものをそのまま正伝すべきなのであって、後世の人間が勝手に変えるべきではないというのが、この巻の趣旨である。
正法眼蔵第四十三は「諸法実相」の巻。諸法実相は法華経方便品に出てくる言葉である。法華経は、浄土系の宗派をのぞき、ほぼすべての仏教宗派が尊重している経典であり、なかでも方便品はもっともよく読まれているお経なので、そのお経の中核理念というべき諸法実相は、仏教に親しんだものなら知らないものはいない。そこでこの諸法実相という言葉の意味だが、一般的な理解では、もろもろの存在の本来のあり方をいう。岩波仏教辞典は「すべての事物(諸法)のありのまま(自然の姿)、真実のありようをいう」と定義している。諸法がすべての存在をさし、実相はその存在のあるがままの姿とするのである。
正法眼蔵第四十二は「説心説性」の巻。説心説性は、一般的な仏教用語ではなく、洞山悟本大師が言ったとされる言葉である。洞山悟本大師は曹洞宗の始祖であり、道元にとっては最も重要な仏祖であるから、その言葉を道元はことさらに重視していた。この巻は、そんな洞山悟本大師の味わい深い言葉の一つを取り上げる。
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