日本文化考

正法眼蔵第十二は「坐禅箴」の巻。「箴」という文字は、もともと鍼灸治療に用いる竹の針という意味である。今では、針は金属でできているので、「鍼」という具合に金偏の文字だが、古代には竹を材料にしていたので、竹冠で「箴」と書いた。針で身体のツボをさすところから、ツボという意味合いも持つこととなり、ツボが転じて要諦というような意味を持つようになった。「坐禅箴」と言う場合には、座禅の要諦というような意味をあらわす。

正法眼蔵第十一「座禅儀」の巻は、座禅の意義と実践上の心得について説いたものである。いまふうに言えば、「座禅の手引き」といったところか。まず、座禅の意義について、「参禅とは座禅なり」と説く。参禅とは。禅の修行のことをいうから、禅の修行は座禅することだ、という意味である。そうしたうえで、座禅の実践上の心得について、ことこまかく説明していく。

「正法眼蔵」第十は「大悟」の巻。大悟とは、文字通りには「大いなる悟」ということだが、禅語辞典には「悟」と同義だと書いてある。けだしさとりに程度の差はなく、したがって大も小もないから、大悟と悟の間に区別はないということであろう。この巻は、そのさとりとはいかなるものかについて、色々な角度から評釈したものである。

正法眼蔵第九は「古仏心」の巻。古仏心とは古仏の心という意味。道元がここでいう古仏とは釈迦牟尼以前の七仏から、釈迦牟尼以後曹谿(慧能のこと)にいたるまでの全四十仏のこと。道元が慧能を特別扱いするのは、慧能が南宋禅の始祖だからだ。禅は弘忍の弟子の代に、慧能の南宋禅と神秀の北宋禅に別れた。その後北宋禅は事実上亡びたが、南宋禅は大いに栄えた。その南宋禅は、石頭希遷の流れと馬祖道一の流れに再分化し、石頭の流れから曹洞宗が、馬祖の流れから臨済宗が生まれた。曹洞宗の流れをくむ道元は、慧能を南宋禅共通の法祖として重視しながら、主に石頭の流れに属する禅者に敬意を払っている。

正法眼蔵第八は「心不可得」の巻。心不可得とは、心は得ようとして得られるものではない、という意味で、仏典の中では、金剛般若経に「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という形で出てくる。過去・現在・未来の三世にわたって、心は得ようとして得られるものではない、というわけである。その場合、「心」という言葉で何を現わしているかが問題になるが、仏典からは明らかでない。道元自身はそれを「自家」と同義に解釈しているようだが、ここでの道元の意図は、言葉の解釈ではない。この言葉を一つのきっかけとして、僧のあるべき姿について語っているである。それを単純化して言うと、僧というものはいくら知識があっても僧としては半端であり、真の僧は修行を通じてさとりをめざすべきだということになる。

正法眼蔵第七「一顆明珠」の巻は、福州玄沙山院宗一大師通称玄沙の言葉「尽十方世界、是一顆明珠」についての評釈である。玄沙は石頭希遷の法統に属し、雪峰義存の弟子である。非常にかわった経歴の人とされる。もともと無学な漁師だったが、三十歳の時に発心して雪峰に弟子入りした。さまざまな人のもとで修行しようとも考えたが、結局雪峰のもとにとどまり続けた。そんな玄沙に雪峰が「そなたは何故色々なところで修行しないのか」と聞いたところ、「ダルマは東土に来たらず、二祖は西天に往かず」と答えた。あちこち歩きまわらずとも修行はできるという意味だ。この逸話から、玄沙は理屈を重んじるタイプではなく、実践を重んじるタイプの仏教者だというふうに受け取られてきた。自身も実践を重んじる道元としては、親しみやすく感じられたのであろう。

正法眼蔵第六は「行仏威儀」について説く。行仏とは、文字通りには仏の道を行ずるという意味であるが、ここではもっと深い意味が込められている。衆生にはそもそも仏性が備わっている、その仏性はしかしそのままには現成しない。それを現成させるには修行が必要である。その修行は、むやみやたらに行えばよいというものではない。作法あるいは礼儀にかなった仕方で行わねばならない。その礼儀になかった仕方、振舞いのことを「威儀(ゐいぎ)」という。したがって、「行仏威儀」とは、仏の道を行ずるについて心得るべき振舞いについて説いたものということができよう。

正法眼蔵第五「即心是仏」の巻を道元が説示したのは延応元年(1239)道元満三十九歳の年である。奥書に、宇治の興聖宝林寺で示衆したとある。テーマは「即心是仏」である。これについて道元は、次のように説き始める。「仏々祖々、いまだまぬかれず保任しきたれるは即心是仏のみなり。しかあるを、西天には即心是仏なし、震旦にはじめてきけり。学者おほくあやまるによりて、将錯就錯せず。将錯就錯せざるゆゑに、おほく外道に零落す」。「即心是仏」は仏祖たちが代々伝えてきた仏教の根本思想であるが、インドにはその教えはなく、中国で初めて生まれたのだと言っている。おそらく、禅の始祖ダルマが中国へ来たことをきっかけに、禅の根本思想である「即心是仏」が中国に広まったと言いたいのであろう。ところがその教えを、中国の仏者といえども、正しく捉えているものは少なく、多くは間違った理解をしている。それを道元は外道といって排斥するのである。

「正法眼蔵」第四「心身学道」の巻は、文字どり心身を以て真理を追究することについて説いたものである。道元はすでに、「心身脱落」について語っていた。心身脱落とは、心身を自我ととらえたうえで、その自我を脱落することがすなわち悟りだと説いていた。その自我には、対象の在り方も含まれるから、要するに相対的な現象の世界を超越することが心身脱落であり、さとりであると説いていたわけである。ところがこの「心身学道」の巻は、心身をもって悟りを得ることが説かれている。ということは、道元は「心身脱落」の前言を取り消して、「心身学道」を説いたのであろうか。まずそこが、大きな問題となる。

仏性の巻の第九段落は、馬祖下の尊宿塩官斉安の言葉「一切衆生有仏性」についての評釈である。この言葉は、釈迦の初転法輪で説かれた言葉として「仏性」の巻の冒頭で取り上げられていたものであるが、それをここでは、違う角度から再び取り上げたものだ。仏性とは、仏になるべき可能性とか素質とかいうものだが、それが一切衆生に備わっているのだということが、すでに冒頭の部分で確認されていた。それを踏まえて、「衆生これみな有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり」と説かれる。「有仏性」であって、「即仏性」ではない。「即仏性」というと、衆生がそのあるがままの姿で仏性だということになるが、そうなると修行の意義がなくなるので、「有仏性」というのである。その上で、「有仏性の有、まさに脱落すべし」という。この「脱落」という言葉が難物である。「心身脱落」というと、心身を脱落して、ものの形にこだわるな、という意味合いになるが、「有を脱落」というと、存在にこだわるなという意味になるのかどうか。

「仏性」の巻の第三段落以降は、道元が古仏と呼ぶ禅師たちの言葉を手掛かりにして、仏性とはいかなるものかについて評釈したもの。道元自身の大宋国における修行体験についても触れられている(第八段落)。ここでは逐語訳するのではなく、各段落の要旨について解説したい。

「正法眼蔵」第三「仏性」の巻は、仏教の根本思想の一つ「仏性」について説いたものである。「仏性」とは、仏になるべき可能性とか素質とされているもので、誰にも生まれながらに備わっているとされる。大乗仏教の経典の中には、仏性は人間のみならず、ほかの生き物、更には草木国土にまで備わっていると説くものがある。道元もまた、人間以外のものを引き合いに出しながら「仏性」を説いているので、基本的にはありとあらゆるものに仏性が備わっていると考えていたといえる。だが道元には一方で、仏性は無為にしては現成せず、修行によって始めて現成するという思想もあり、一筋縄ではいかないところがある。

「正法眼蔵」第二「魔訶般若波羅蜜」の巻が説かれたのは天福元年(1233)、現成公案」を説いた翌年、道元満三十三歳の年である。「現成公案」に引き続き、空の思想を説いている。それを道元は、「般若心経」及び「大般若経」の経文を引用し、それに注釈を加えるかたちで説くという方法をとっている。併せて道元が古仏と呼ぶ天童如浄の教えを紹介している。般若心経を読んだことのある人には、わかりやすい説明だと思うので、テクストにそった逐語訳はせずに、ポイントとなるところをとりあげて、小生なりの評釈を加えたい。段落ごとにとりあげ、漢文は読み下し文にしてある。

心身脱落の結果現れるのはさとりの境地である。そのさとりとはいかなるものかについて書かれたのが「現成公案」の後半部である。以下テクストにそって読み解く。原文と現代語訳を併記する。

現成公案の巻の主要テーマは「心身脱落」である。それがいかなるものかについて、次の文章(第七節以下)が簡略に示している。

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NHKの能楽番組(古典芸能への招待)が、昨年人間国宝に指定された宝生流シテ方大坪喜美雄をフィーチャーして、能「百万」を放映した。この曲は、観阿弥が曲舞を始めて能にとりいれたものとして知られている。それを息子の世阿弥が改作して、今日のような形になった。とはいえ、観阿弥の能の特徴がよく保存されている。現在能の形式をとっていることや、芸尽くしのにぎやかさといった要素が指摘できるのである。そういう点では、わかりやすく、また楽しい曲である。

「正法眼蔵」七十五巻本の冒頭を飾るのは「現成公案」である。この七十五巻本は、現行の岩波文庫に採用されているものだ。道元自身の編集意図が働いているといわれているから、道元はこれ(この巻)を、正法眼蔵全体の序文のようなものと位置づけていたと思われる。巻末の奥書には、「天福元年(1233)中秋」に書いたと記されており、その年道元満三十三歳であって、「辯道話」を書いてから二年後のこと、正法眼蔵のなかにおいて最も早く書かれたものでもあるから、冒頭に置かれるにふさわしいといえよう。その内容は、道元が天童の師匠如浄の教えに導かれて、心身脱落したさまを記したものだ。心身脱落はさとりの境地をあらわす言葉だから、道元は自らのさとりを記すことから、正法眼蔵の執筆を始めたわけである。道元は、その二年前に書いた「辯道話」では、みずからのさとり自体については、表立って触れていない。この「現成公案」においてはじめて、それに触れたのである。

辯道話のうち、問答の部分の続き。「とうていはく。この坐禅をもはらせん人、かならず戒律を厳浄すべしや」。この問いに対しては、「持戒梵行は、すなはち禅門の規矩なり、仏祖の家風なり。いまだ戒をうけず、又戒をやぶれるもの、その分なきにあらず」と答える。持戒梵行はなすべきことだが、戒をうけず、又戒をやぶったものでも、座禅をする資格がないわけではない、という。

辯道話の後半は問答集である。分量的には全体の三分の二以上を占める。仏教にはさまざまな教えがあるなかで、何故只管打坐を強く主張するのかということを中心にして、道元の主張に異議を唱えた相手に、道元がいちいち答えていくことを通じて、道元の思想の概略が説明されるという体裁になっている。それ以前での総論的な主張を、各論的に展開したものということができよう。

道元が「辨道話」を書いたのは寛喜三年(1231)、四年にわたる宋留学から帰国して四年後のことだ。その時道元は京都深草の廃寺の近くに草庵をもうけて、ひっそりと修行を続けていた。後に高弟となる懐奘が師事を許されるのは文暦元年(1234)のことである。

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