正法眼蔵「行持」全巻の最後は、師天童如浄をめぐる話である。その如浄について道元は、仏教者としての生き方と、思想との両面から解説している。生き方については、次のような簡略な説明がなされる。「先師は十九歳より、離郷尋師、辨道功夫すること、六十五載にいたりてなほ不退不転なり。帝者に親近せず、帝者にみえず。丞相と親厚ならず、官員と親厚ならず。紫衣師号を表辞するのみにあらず、一生まだらなる袈裟を搭せず、よのつねに上堂、入室、みなくろき袈裟、裰子をもちゐる」。
日本文化考
正法眼蔵第十六「行持」の下巻は、禅の初祖達磨とその弟子で第二祖といわれる慧可についての解説に大部分があてられる。それに第四祖大医道信が続き、そのあとに曹洞系の古仏が何人か取り上げられる。ただその分量は、如浄の部分を除けばわずかなものであり、臨済系と比較して均衡を失するほど少ない。道元がどういうつもりでこのような構成をとったか、にわかにはわからない。臨済に比べると、曹洞系の古仏はより達磨の教えに忠実であり、したがって達磨の説いたところを納得すれば、それでよいと考えていたのかもしれない。
正法眼蔵第十六は「行持」の巻。この巻は、正法眼蔵の中で他を絶して長く、岩波文庫版で百ページを超える。そんなこともあって、古来二冊に分けて編せられてきた。長くなった理由は、道元が古仏と呼ぶ人々の業績というか、修行の様子を、いち細かく紹介しているためである。この巻で道元が取り上げている古仏は、釈迦牟尼仏を筆頭に、道元の師如浄まで実に三十三人にのぼる(うち二人は二度とりあげている)。
正法眼蔵第十五は「光明」の巻。光明とは仏の智慧を光の明るさにたとえたもの。したがってこの巻の主題は、仏の智慧を説くことにある。ここで道元が説くところの仏の智慧とは、中国的な仏教の智慧であり、その中でも禅の教えが含むところの智慧である。そんなわけでこの巻は、仏教が中国に始めて伝来したことへの言及から始まり、達磨西来を契機にその智慧が一段と深化したことを強調する。「これ仏祖光明の親曾なり。それよりさきは仏祖光明を見聞せることなかりき、いはんや自己の光明を知れるあらんや」というほど、達磨の意義を称賛するのである。
正法眼蔵第十四は「空華」の巻。この巻もまた、表題である「空華」という言葉の意味を道元がどうとらえていたかが理解の鍵になる。「空華」という言葉は、普通は、実在しないもののたとえとして使われる。いわば空中に見える蜃気楼のようなものを実在する花と思い込む、そういう事態をあらわした言葉というのである。それに対して道元は異議を唱え、そうした否定的な意味ではなく、肯定的な意味を付与する。その肯定的な意味での空華という言葉を、仏の教えと関連付けるのである。だからこの巻は、ほかの巻とは多少ちがって、さとりの境地についての説ではなく、仏の教えの連続性について説いたものということができる。

先日NHKが宇治平等院関係の能楽番組を放送したうち、狂言の部分は「通円」。これは能「頼政」のパロディだと言ったが、まさにそのとおりで、頼政を通円にかえ、討ち死にを茶のたて死にに変えているほかは、舞台回しからせりふ(これは謡の形をとる)まで原作をほとんどそのまま繰り返している。だから、原作を知っていることが、この曲の味わい方の決定的な条件となる。原作を知らなければ、折角のパロディが意味をなさないからだ。

NHKが宇治平等院ゆかりの能楽として、能「頼政」と狂言「通円」を放映したのを見た。この二曲は、歌で言えば本歌と本歌取りの関係にあり、狂言のほうは能の完全なパロディになっている。その狂言のことは別に触れるとして、ここでは能「頼政」について、小生の所見を述べる。
「正法眼蔵」第十三は「海印三昧」の巻。この巻を正しく理解するには「海印三昧」という言葉の意味がきちんとわかっていなければならない。そこで岩波仏教辞典であたると次のような説明がある。「大海がすべての生き物の姿を映し出すように、一切の法を明らかに映し出すことのできるような智慧を得る三昧」。つまり宇宙についての究極的な智慧を得た状態ということになろう。そういう智慧を得た状態は、さとりの状態といえるので、「海印三昧」とはさとりの境地の別名と言えよう。
「坐禅箴」の巻の後半は、宏智禅師正覚の「坐禅箴」の紹介とそれへの道元の注釈、及び道元自身の「坐禅箴」の提示からなる。宏智禅師は、曹洞宗の法統に属し、道元より四世代前の人。道元の師匠如浄が唯一「古仏」と呼んで尊敬していた禅者である。その宏智の残した「坐禅箴」を道元は、多くの座禅に関する書物がことごとくつまらぬものばかりなのに、ひとつだけはなはだ優れたものとして推奨する。この「坐禅箴」だけが、「仏祖なり、坐禅箴なり、道得是なり。ひとり法界の表裏に光明なり、古今の仏祖に仏祖なり。前仏後仏この箴に箴せられもてゆき、今祖古祖この箴より現成するなり」というのである。
正法眼蔵第十二は「坐禅箴」の巻。「箴」という文字は、もともと鍼灸治療に用いる竹の針という意味である。今では、針は金属でできているので、「鍼」という具合に金偏の文字だが、古代には竹を材料にしていたので、竹冠で「箴」と書いた。針で身体のツボをさすところから、ツボという意味合いも持つこととなり、ツボが転じて要諦というような意味を持つようになった。「坐禅箴」と言う場合には、座禅の要諦というような意味をあらわす。
正法眼蔵第十一「座禅儀」の巻は、座禅の意義と実践上の心得について説いたものである。いまふうに言えば、「座禅の手引き」といったところか。まず、座禅の意義について、「参禅とは座禅なり」と説く。参禅とは。禅の修行のことをいうから、禅の修行は座禅することだ、という意味である。そうしたうえで、座禅の実践上の心得について、ことこまかく説明していく。
「正法眼蔵」第十は「大悟」の巻。大悟とは、文字通りには「大いなる悟」ということだが、禅語辞典には「悟」と同義だと書いてある。けだしさとりに程度の差はなく、したがって大も小もないから、大悟と悟の間に区別はないということであろう。この巻は、そのさとりとはいかなるものかについて、色々な角度から評釈したものである。
正法眼蔵第九は「古仏心」の巻。古仏心とは古仏の心という意味。道元がここでいう古仏とは釈迦牟尼以前の七仏から、釈迦牟尼以後曹谿(慧能のこと)にいたるまでの全四十仏のこと。道元が慧能を特別扱いするのは、慧能が南宋禅の始祖だからだ。禅は弘忍の弟子の代に、慧能の南宋禅と神秀の北宋禅に別れた。その後北宋禅は事実上亡びたが、南宋禅は大いに栄えた。その南宋禅は、石頭希遷の流れと馬祖道一の流れに再分化し、石頭の流れから曹洞宗が、馬祖の流れから臨済宗が生まれた。曹洞宗の流れをくむ道元は、慧能を南宋禅共通の法祖として重視しながら、主に石頭の流れに属する禅者に敬意を払っている。
正法眼蔵第八は「心不可得」の巻。心不可得とは、心は得ようとして得られるものではない、という意味で、仏典の中では、金剛般若経に「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という形で出てくる。過去・現在・未来の三世にわたって、心は得ようとして得られるものではない、というわけである。その場合、「心」という言葉で何を現わしているかが問題になるが、仏典からは明らかでない。道元自身はそれを「自家」と同義に解釈しているようだが、ここでの道元の意図は、言葉の解釈ではない。この言葉を一つのきっかけとして、僧のあるべき姿について語っているである。それを単純化して言うと、僧というものはいくら知識があっても僧としては半端であり、真の僧は修行を通じてさとりをめざすべきだということになる。
正法眼蔵第七「一顆明珠」の巻は、福州玄沙山院宗一大師通称玄沙の言葉「尽十方世界、是一顆明珠」についての評釈である。玄沙は石頭希遷の法統に属し、雪峰義存の弟子である。非常にかわった経歴の人とされる。もともと無学な漁師だったが、三十歳の時に発心して雪峰に弟子入りした。さまざまな人のもとで修行しようとも考えたが、結局雪峰のもとにとどまり続けた。そんな玄沙に雪峰が「そなたは何故色々なところで修行しないのか」と聞いたところ、「ダルマは東土に来たらず、二祖は西天に往かず」と答えた。あちこち歩きまわらずとも修行はできるという意味だ。この逸話から、玄沙は理屈を重んじるタイプではなく、実践を重んじるタイプの仏教者だというふうに受け取られてきた。自身も実践を重んじる道元としては、親しみやすく感じられたのであろう。
正法眼蔵第六は「行仏威儀」について説く。行仏とは、文字通りには仏の道を行ずるという意味であるが、ここではもっと深い意味が込められている。衆生にはそもそも仏性が備わっている、その仏性はしかしそのままには現成しない。それを現成させるには修行が必要である。その修行は、むやみやたらに行えばよいというものではない。作法あるいは礼儀にかなった仕方で行わねばならない。その礼儀になかった仕方、振舞いのことを「威儀(ゐいぎ)」という。したがって、「行仏威儀」とは、仏の道を行ずるについて心得るべき振舞いについて説いたものということができよう。
正法眼蔵第五「即心是仏」の巻を道元が説示したのは延応元年(1239)道元満三十九歳の年である。奥書に、宇治の興聖宝林寺で示衆したとある。テーマは「即心是仏」である。これについて道元は、次のように説き始める。「仏々祖々、いまだまぬかれず保任しきたれるは即心是仏のみなり。しかあるを、西天には即心是仏なし、震旦にはじめてきけり。学者おほくあやまるによりて、将錯就錯せず。将錯就錯せざるゆゑに、おほく外道に零落す」。「即心是仏」は仏祖たちが代々伝えてきた仏教の根本思想であるが、インドにはその教えはなく、中国で初めて生まれたのだと言っている。おそらく、禅の始祖ダルマが中国へ来たことをきっかけに、禅の根本思想である「即心是仏」が中国に広まったと言いたいのであろう。ところがその教えを、中国の仏者といえども、正しく捉えているものは少なく、多くは間違った理解をしている。それを道元は外道といって排斥するのである。
「正法眼蔵」第四「心身学道」の巻は、文字どり心身を以て真理を追究することについて説いたものである。道元はすでに、「心身脱落」について語っていた。心身脱落とは、心身を自我ととらえたうえで、その自我を脱落することがすなわち悟りだと説いていた。その自我には、対象の在り方も含まれるから、要するに相対的な現象の世界を超越することが心身脱落であり、さとりであると説いていたわけである。ところがこの「心身学道」の巻は、心身をもって悟りを得ることが説かれている。ということは、道元は「心身脱落」の前言を取り消して、「心身学道」を説いたのであろうか。まずそこが、大きな問題となる。
仏性の巻の第九段落は、馬祖下の尊宿塩官斉安の言葉「一切衆生有仏性」についての評釈である。この言葉は、釈迦の初転法輪で説かれた言葉として「仏性」の巻の冒頭で取り上げられていたものであるが、それをここでは、違う角度から再び取り上げたものだ。仏性とは、仏になるべき可能性とか素質とかいうものだが、それが一切衆生に備わっているのだということが、すでに冒頭の部分で確認されていた。それを踏まえて、「衆生これみな有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり」と説かれる。「有仏性」であって、「即仏性」ではない。「即仏性」というと、衆生がそのあるがままの姿で仏性だということになるが、そうなると修行の意義がなくなるので、「有仏性」というのである。その上で、「有仏性の有、まさに脱落すべし」という。この「脱落」という言葉が難物である。「心身脱落」というと、心身を脱落して、ものの形にこだわるな、という意味合いになるが、「有を脱落」というと、存在にこだわるなという意味になるのかどうか。
「仏性」の巻の第三段落以降は、道元が古仏と呼ぶ禅師たちの言葉を手掛かりにして、仏性とはいかなるものかについて評釈したもの。道元自身の大宋国における修行体験についても触れられている(第八段落)。ここでは逐語訳するのではなく、各段落の要旨について解説したい。
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