日本文化考

一遍聖絵は、成立後京都の歓喜光寺に伝わってきたが、現在は神奈川県藤沢の清浄光寺(通称遊行寺)が所蔵している。全十二巻のうち第七巻は、東京の国立博物館にある。遊行寺のものには、第七巻の後補物が含まれている。東京国立博物館では、全巻をデジタル映像にして、ネットで公開しているので、誰でも見ることができる。一部保存の状態が悪く、文字が判読できない部分があるが、それについては、複写本で補わねばならぬ。岩波文庫から出ている全文のテクストは、複写本を参照しながら足りないところを補なったものである。

中論第二十五章は「ニルヴァーナの考察」である。ニルヴァーナとは、漢訳で涅槃ともいわれ、釈尊が最終的にさとりを開いたところの境地をさして使われる言葉である。仏教では輪廻を解脱した世界というのが、だいたいの共通理解となっているが、その積極的な内容については、かならずしも明確ではない。中論をそれを明確にしようとするのであるが、しかしその説明の仕方はあいかわらず雲をつかむようであり、今一つ判然としないところがある。

「中論」第二十四章は「四つのすぐれた真理の考察」である。四つのすぐれた真理とは、四諦とか四聖諦とかいわれるもので、釈迦の初転法輪のなかで説かれた仏教の根本真理である。したがって、大乗のみならず、いわゆる小乗もこれを根本真理としている。だが、その解釈が微妙に違う。その違いを明らかにして、空の立場から四諦をとらえることの重要性を説いたのがこの章の内容である。

中論第二十三章は「転倒した見解の考察」である。ここで転倒した見解というのは、誤った見解をさす。その誤った見解のために、貪欲とか嫌悪とか愚かな迷いというものが生じる。したがって、そうした誤った見解が消滅すれば、貪欲以下の煩悩の原因もなくなる。煩悩こそは人間の苦悩の原因であり、その苦悩があやゆる存在を流転のうちに放り投げるのであるから、さとりを得て涅槃に至るためには、苦悩から脱却しなければならない。そう説くのが、この章の目的である。

原因と結果との考察についての中論の議論は、一見して論理的なものである。論理的に考えると、原因と結果の関係は、すでに原因が結果を含んでいる場合にのみ成り立つということになる。これは普遍的なことなので、いかなる場合にも成り立つ。それは、ある特定の原因が与えられればそれに対応する結果もすでに与えられているというふうに表現される。因果関係はしたがって、カントの言葉を用いれば、アプリオリなものである。アプリオリというのは、論理必然的に成り立つと言う意味である。

アートマンとは我とか自我と訳されるように、主として心の担い手としての主体をさす。中観派の思想は、その我について、「我(アートマン)なるものはなく、無我なるものもない」と説く。これを形式論理学の言葉でいえば、Aなるものはなく、非Aなるものもない、ということになる。一見して論理の破綻のように見えるが、中観派とは、形式論理の否定の上になりたつのである。形式論理を中観派は分別の作用だとする。しかし分別の作用から得られるのは戯論であるというのが中観派の思想である。

中論第十七章は、「業と果報との考察」と題して、業とその果報について論じている。業と果報との関係は、原因としての行為とその結果としての報酬との関係のことであり、通常因果関係とか因縁とか呼ばれている。この章は、前半部で説一切有部の「法有」説(実念論)を批判しつつ、後半部で業と果報とはいずれも実在しないという空の思想を展開している。

中論第十三章「形成されたものの考察」及び第十五章「それ自体の考察」は、自性と無自性とについての考察である。自性というのは、それ自体として存在しているもので、他に原因を持たないものをいう。それに対して無自性というのは、別のものによって形成されたもので、それ自体のうちに原因をもたないものをいう。自性は、基本的には不変である。無自性には生起・存続・消滅の相がある。ここでナーガールジュナが自性と呼んでいるのは、永遠不変の概念のようなもので、したがって人間の思考の産物である。それに対して無自性は、具体的な存在物であって、たえず生成変化していると考えられている。そのように抑えたうえで、自性も無自性も成立しないと断ずるのが、この二つの章の目的である。

中論第九章「過去の存在の考察」及び第十章「火と薪との考察」は、第八章「行為と行為主体との考察」における議論のバリエーションみたいなものである。第九章では、「見るはたらき・聞くはたらき・感受作用」などについて、それらのはたらきそのものとその働きの主体との関係について論じられ、第十章でははたらきとしての火とその主体あるいは担い手としての薪との関係について考察される。

中論の第七章は「行為と行為主体との考察」と題して、表向きは行為・作用とその主体との関係についての議論のように見えるが、本当の論題は、概念的な存在の空虚さをめぐる議論である。概念的な存在の空虚さをめぐる議論は、有為と無為の関係をめぐる第六章においてもなされていたが、それを別の形で言い換えたものと言ってよい。

中論第七章は、「つくられたもの(有為)の考察」と題して、「つくられたもの(有為)」と「つくられたものでないもの(無為)」についての考察である。ここで「もの」としてテーマになっているのは「生」である。その生が「つくられたもので」であるとは、なんらかのかたちで原因をもっているという意味である。原因のないものは生じないからである。それを「有為」という言葉であらわす。一方、「無為」は「有為」の反対であって、それは「つくられたものではない」。どういうことかというと、その存在に原因がないということである。原因がないとは、その存在がそれ自身の本性に基いてあるようなことをさす。具体的には、抽象的な概念のことである。抽象的な概念は、因果の連鎖から離れて、個々の概念がそれ自体で存在している。つまり抽象的な概念は自性をもつ。

「中論」第六章「貪りに汚れることと貪りに汚れた人との考察」は、平川訳では「染める者と染められるものとの考察」となっている。だが、染める者(能染)は「貪り」と言われているので、両者の意味は同じだと考えてよい。その上でこの章を読んでみると、説かれているのは、不去不来、不一不異とほぼ同じことだと分かる。同じ理屈を、異なった例に適用することで、言葉の意味の厳格化をはかろうというのだろうが、こうした蒸し返しは、かえって事態を複雑化させているように見える。

「中論」の第三章は「認識能力の考察」と題して、六根について考察している。六根とは、見るはたらき、聞くはたらき、嗅ぐはたらき、味わうはたらき、触れるはたらき、思考するはたらきの、六つの認識能力を言う。それらの認識能力が存在しないというのが、この章の眼目である。

「中論」の第二章は、「運動(去ることと来ること)の考察」と題して、八不のうちの「不去不来」を表面上のテーマとしているが、そのほかに「不一不異」はじめ八不全般に共通する問題を取り扱っており、「中論」の思想の中核部分の表明というふうに受け取られてきた。

中論は全二十七章からなるが、その全体の序文のような位置づけで、「帰敬序」という文章が冒頭に置かれている。次のようなものである。

中論を読む

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「中論」のテクストとして目下手に入りやすいものは、筑摩書房刊行「古典世界文學」シリーズ7「仏典Ⅱ」に収められた平川彰訳「中論の頌」であるが、これは抄訳であり、また非常に難解とあって、仏教や中観派の予備知識がない者が読んでも、なかなか理解できない。そこで注釈書が不可欠になる。注釈書としては、チャンドラキールティのものを始め古来色々なものが流通しているが、それらも素人にとって読みやすいものではない。そこで現代の日本人の書いたもので、わかりやすい注釈書はないかと探し回ったところ、高名な仏教学者中村元の「龍樹」という本に出会った。この本は、龍樹(中論の著者)の生涯を簡単に紹介した後、その思想を、中論を拠り所にしながら説明している。かなり念の入った説明で、実質的には、中論への丁寧な注釈と言ってよい。小生のような、仏教の知識に乏しいものには、非常にありがたい本である。しかも、巻末には、中論全27章の、サンスクリット語からの現代日本語訳を載せている。筑摩版と合わせ読むことで、中論への理解が深まると思う。

田上太秀は仏教学者で、涅槃経全巻を現代語訳したそうだ。かれが訳したのは大乗系の涅槃経で、彼自身「大乗涅槃経」と称している。これとは別に原始涅槃経という小乗系の涅槃経があって、そちらは中村元が訳したものが岩波文庫から出ている。中村は田上にとって師匠格にあたるようだから、師弟力を合わせて大小の涅槃経を訳したということになる。

般若心経は、最も古い大乗経典である般若経典のなかで、最も短いものであり、また分かりやすいので、在俗の人びとが読経するのに都合がよく、日本の仏教各宗派では、浄土宗を除く各宗派で広く読まれてきた。とくに、禅宗では、法事の席で必ず読まれている。その読まれているお経は、唐の三蔵法師玄奘が漢訳したもので、正式には「般若波羅蜜多心経」という。般若は智慧をあらわすサンスクリット語パンニャーの音訳、波羅蜜多は悟りを得て彼岸に至る道とか、完成とかいった意味の言葉パーラミターの音訳、心経はエッセンスといった意味である。これを要するに完成した悟りへの道であるところの智慧のエッセンスという意味である。

「八千頌般若経」の第三十章は、常諦菩薩の求法をテーマとしている。大乗経典の多くは、菩薩が悟りをもとめて旅する模様を描くのであるが、この「常諦菩薩の求法」の章はその原形となるものである。ここでは、般若波羅蜜を体得したものとしてダルマウドガダ菩薩が設定され、その菩薩の導きによって、さとりを得ようとする常諦菩薩の旅が描かれる。修行者としての菩薩が、先輩の菩薩の導きによって、さとりの境地に達するという構成になっているわけである。

八千頌般若経の眼目は、般若波羅蜜の意義と功徳を説くとともに、その般若波羅蜜の体現者としての菩薩大士のあり方について説くことである。菩薩という言葉は、大乗経典のもっとも古いお経である般若経が、はじめて用いた。それは、仏教的な意味でのさとりを得る人あるいは得た人を意味する。同じような意味合いで、阿羅漢という言葉がある。阿羅漢は、原始仏教以来使われている言葉で、やはりさとりを得た人を意味するが、そのさとりとは、とりあえず阿羅漢個人として、自分自身の救済としてのさとりであった。ところが、自分自身のさとりにとどまらず、一切衆生のさとりのために努力すべしという考えが起ってきた。そうした一切衆生のさとりのために努力する人を、阿羅漢とは別に菩薩という言葉で表現した。つまり菩薩は、自分個人のためにさとりをめざす人を超えて、一切衆生のためにさとりをめざす人へと転換したのである。

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