日本文化考

菩薩の十地の第九の地は、「いつでもどこでも正しい知恵のある菩薩の地」と呼ばれる。その地にある菩薩は、あらゆる世界のあらゆる存在について、その如相を知るとともに、その知恵をもとにして衆生を教えみちびく。第八の地を経て不退転の境地にいたった菩薩は、いまやその完璧なる知をもって、存在の如相を体得しながら、衆生の救済へと乗り出すのである。衆生の救済とは、衆生をしてさとりを得せしめることである。これゆえ、この第九の位についての教えは、前段であらゆる世界のあらゆる存在の如相がいかなるものかについて説き、後段で、その知恵を生かしながら衆生をみちびく方便について説く。

菩薩の十地は第八地にいたって従来とはまったく異なった境地に入る。従来の境地は、菩薩の個人としての修行に重きを置いていた。大乗の菩薩であるから、その修行は自己のみならず衆生の救済をも目的とするものであるが、しかし自己自身修行の身であることにはかわりなく、したがって十全なさとりの境地にはまだ達しておらず、ましてや衆生をさとりに導くことはできない。ところが、第八地にある菩薩は、自己自身のさとりを成就すると同時に、衆生をしてさとりを得させる力を持つにいたるのである。

菩薩の十地のうち、第一から第六までと第八以降の間には飛躍的な差異がある。その飛躍を媒介するのが第七地である。第六地までと第八地以降とではどのような差異があるのか。薩の十地はすべて、さとりに導く諸徳を円満に成就することを目的としている。その諸徳の円満な成就は、第六地までは一定の条件のもとで可能になる。ところが、第八地以降においては、そうした条件なしに、菩薩がかくあれと願うだけで成就する。第六地までは修行者の色合いが強いが、第八地以降は、限りなく仏の境地に近づいている。第七地は、その前者と後者と、二つの境地の橋渡しをするのである。

菩薩の十地の第六は「真理の知が現前する菩薩の地」である。その真理の内実は十二因縁及び三界唯心という二つの言葉に集約される。十二因縁は仏教の基本思想であり、すべてのものには固有の実体はなく、ただ因果関係の連鎖に過ぎないと考える。また三界唯心とは、世界のすべての存在は心の生み出したものだとする考えで、これは華厳経の十地品(十地経)が積極的にうちだした思想である。

菩薩の十地の第五は「本当に勝利しがたい菩薩の地」である。この地にある菩薩は、四諦の真理をさとる。四諦とは四つの聖なる真理のことであり、釈迦牟尼が初転法輪で説いた真理である。それは次のように言い表される。「ああ、あらゆるものは苦悩に満ちている! これが、仏の教えられた聖なる真理(苦聖諦)である、とあるがままに如実にさとる。ああ、あらゆる苦悩は生成する(苦集)! ああ、あらゆる苦悩は寂滅している(苦滅)! ああ、あらゆる苦悩の寂滅に導く道がある(苦滅道)! これが、仏の教えられた聖なる真理である」

菩薩の十地の第四は「光明に輝く菩薩の地」である。第三地から第四地に進みゆくにあたっては、十種のあらゆる存在についての光明(十法明門)を体得する。その十種の光明とは次のようなものである。
(1)あらゆる衆生をあらしめる衆生性(衆生界)をさまざまに思惟する光明
(2)あらゆる世界をあらしめる世界性(世界)をさまざまに思惟する光明
(3)あらゆる存在をあらしめる存在性(法界)をさまざまに思惟する光明
(4)空間をあらしめる空間性(虚空界)をさまざまに思惟する光明
(5)識をあらしめる識性(識界)をさまざまに思惟する光明
(6)欲望をあらしめる欲望性(欲界)をさまざまに思惟する光明
(7)物質のみが存在する禅定性(色界)をさまざまに思惟する光明
(8)物質も存在しなくなった禅定をあらしめる禅定性(無色界)をさまざまに思惟する光明
(9)広大な道心による信仰をあらしめる信仰性をさまざまに思惟する光明
(10)大乗の真理のままなる道心による信仰をあらしめる信仰性をさまざまに思惟する光明

菩薩の十地の第三は「光明であかるい菩薩の地」である。この地にある菩薩は、如実なるままに思惟し、四種の禅定と無量心、物質の世界を超越した限りない禅定、また五種のもっともすぐれた神通力を体得している。それらをもって、菩薩としての資質を高め、衆生の救済に奮励努力するのである。

菩薩の十地の第二は「垢れをはなれた菩薩の地」である。第一の地を成就すると、かの菩薩には十種の道心が現前する。すなわち、(1)誠実なる道心(正直心)、(2)柔和なる道心(柔軟心)、(3)無碍自在なる道心(堪能心)、(4)練磨された道心(調伏心)、(5)静寂なる道心(寂静心)、(6)うるわしい道心(純善心)、(7)純一無雑なる道心、(8)無欲恬淡なる道心、(9)広大なる道心、(10)大乗の真理のままなる道心(大心)である。

菩薩の十の地の第一は「歓喜にあふれる菩薩の地」である。これは菩薩道の修行の最初の段階で、さとりを求める心が生じることでその境地にいたる。さとりを求める心は、菩薩の道を究めて、ついには如来の境地にいたることをめざすが、その第一段階が「歓喜にあふれる菩薩の地」なのである。この地に立つことは、菩薩の十の位をすべて通り抜け、仏になる準備を整えることにつながる。無暗に修行するのではなく、計画に従って修行する。その計画はあらかじめ示されている。それは隊商のリーダーが出発に際して目的地までの道筋をすでに頭の中に描いているのと同様である。さとりを求め修行を始めた菩薩はすでに終着点を見据えているのである。そうお経は語り、これから菩薩が経めぐる修行の十の段階として菩薩の十地を説明するのである。

十地経はもと独立した経典だったが、のちに華厳経に統合されて「華厳経十地品」となった。十地経と華厳経本体のどちらが古いかについては、定説はないようだ。上山春平は十地経が華厳経のもっとも古層に属していると言っている(角川書店刊「仏教の思想シリーズ⑥無限の世界観<華厳>)。それに対して、華厳経本体のほうを古いものと見、十地経はそれにあとから付け加わったとみる見方もある。その見方は、華厳経の特徴である十種の分類法がまず成立し、その分類法を菩薩の位に適用するという考えが生じて、その考えに基づいて十地経が編纂されたのではないかと推測する。

第五会「兜率天宮会」は、説法の場が兜率天にかわる。兜率天は夜摩天よりさらにはるか上空にある。そこに如来が赴くと、兜率天王が獅子座をあつらえてお迎えし、大勢の天子とともに如来を供養した。また、無数の世界から無数の菩薩たちが集まってきて、如来をほめたたえた。その中には、金剛幢菩薩、堅固幢菩薩、夜光幢菩薩、離垢幢菩薩がいた。古来兜率天の内院にいるとされる弥勒菩薩は登場しない。

華厳経第十八章「十無尽蔵品」は、その前章の「十行品」とともに、第四会「夜摩天宮会」の本論をなす。「十行品」は菩薩がさとりを得るためになすべき行いを説いたものであるのに対し、この「十無尽蔵品」は、菩薩には仏になるべき素質が備わっていると説くものである。このように、菩薩に代表される衆生に本来仏となるべき素質つまり仏性がそなわっているとする思想を如来蔵思想という。衆生にも如来と全く同じ仏性が備わっていると見るのである。この「十無尽蔵品」は、その如来蔵の具体的な内容を説く。ここではそれを単に「蔵」と呼び、それぞれの蔵が無尽であることを強調している。

第四会「夜摩天宮会」は、舞台を夜摩天に移す。夜摩天は、忉利天のずっと上空にある。そこに仏が移り、獅子座に結跏趺坐すると、夜摩天王のほか大勢の菩薩たちが周りを取り囲んで礼拝する。菩薩たちが仏をたたえる言葉の中には、華厳経の独特の世界観も含まれている。中でも力成就林菩薩が述べる唯心論思想は、華厳経の核心的世界観といえるものである。それは、「心と仏と衆生とは、互いに無差別であり、たがいに尽きることがない。一切はことごとく心とともにうごく」という主張であり、「三界唯心」と呼ばれる思想である。その詳細については、第六会「他化自在天宮会」第二十二章「十地品」において説かれる。それに先立って、この「 夜摩天宮会」では、菩薩の十行と十の無尽蔵について説かれる。

第三会は「忉利天会」と題して忉利天を舞台とする。忉利天は須弥山の頂にあって、帝釈天が主催している世界である。そこへ世尊がやってきて獅子座に結跏趺坐すると、その周りに無数の菩薩たちが集まってきた。その菩薩の中から、法慧菩薩が一同を代表して、菩薩の十住を説いた。この 忉利天会における説法以後、第六会までは、天上界での説法が続く。

「十種の甚深」が説かれた後、第七章「浄行品」では菩薩のなすべき修行が述べられ、ついで第八章「賢首菩薩品」で修行のもたらす功徳について説かれる。「浄行」とは菩薩のなすべき修行のことをさし、それは清浄で、ものに動じない身口意の三業を得ることだと説かれる。身口意とは身体、言葉、意思、つまり人間の働きのすべてをいう。その三業を清浄で、ものに動じないものとするのが「浄行」のとりあえずの目的である。究極の目的は、衆生の救済ということにある。

第二会は同じ地上で行われるが、場所を寂滅道場から普光法堂に移す。そこで廬舎那仏に代わって文殊菩薩が説法をする。説法の内容は仏のさとりについてである。それとともに、そのさとりを得るためのボサツの心得が説かれる。

華厳経の意義、内容、構成等については別稿(無限の世界観<華厳>)で概説したので、ここでは触れない。華厳経本文を読んでみたい。使用したテクストは、筑摩書房刊「古典世界文学」シリーズ「仏典Ⅱ」収録の「華厳経」の部分。これは漢訳(佛駄跋陀羅訳の六十巻本)からの現代日本語訳(玉城康四郎訳)で、全三十四章中、第一章から第二十一章までをカバーしている。華厳経固有の思想を納めているとされる「十地品」の直前で終わっている。「十地品」は、もともとは独立した経典で、華厳経の中でも最も古層に属するといわれている(上山春平ら)。そこで説かれた思想と、それ以外の章における思想の関係がどうなっているか。上山らは、十地品で説かれた思想が、それ以外の章において発展的に展開されたというふうに言っているが、それらの対応関係はかならずしもわかりやすくはない。十地品の根本思想はいくつかの要素からなるが、そのうち「性起説」は華厳経全体に共通する思想として、ほかの経典にも繰り返されている。だが、「四種法界」とか「円融無碍」といった思想は、十地品特有といっていいようである。

小乗に比較した大乗の最大の特徴は、あらゆる人に仏になる素質があると考えることだ。小乗では、一部のエリートが凡俗から逸脱して僧侶団体を作り、そこで修行に専念することでさとりの境地に達すると考える。しかしそのさとりは、あくまでも人間としてのさとりである。そのさとりの境地に達した人を阿羅漢というが、阿羅漢は仏とは異なる。あくまでも人間の延長である。ところが大乗では、凡俗は人間であることを脱して仏になれると考える。仏教のいう仏とは、基本的には抽象的な原理なのだが、それはさておいて、凡俗が仏になれるというのは、仏教にとっての激烈な転換であったといえる。その転換を大乗仏教が実現したわけである。

「勝蔓経」の「一諦章」は、四諦のうち苦滅諦こそが唯一絶対の真理「一諦」であると説く。われわれ凡俗が、この真理に到達できるのは、われわれ自身の中にそうした真理を獲得する能力が備わっているからであり、それを如来蔵という。経は続いてこの如来蔵について詳しく語ろうとするのであるが、如来蔵については、別に一章を設けて詳説しているので、その部分を取り上げるときにあわせて触れたいと思う。

「勝鬘経」の「一乗章」は、三乗をすべて含んだ仏乗としての一乗の意義について説き、また、真実の教えとしての正法とは、無名住地を正しく理解し、それを克服することだと説く。「無名住地」とは全ての煩悩の根源にある煩悩であって、涅槃の境地に達してはじめて超脱できる。声聞や独悟が目指す地では、せいぜい派生的な煩悩が除かれるだけで、根源的な煩悩である「無名住地は」克服できない。大乗の教えたる正法を接受することではじめて「無名住地」が克服できる。

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