日本文化考

「正法眼蔵」第三「仏性」の巻は、仏教の根本思想の一つ「仏性」について説いたものである。「仏性」とは、仏になるべき可能性とか素質とされているもので、誰にも生まれながらに備わっているとされる。大乗仏教の経典の中には、仏性は人間のみならず、ほかの生き物、更には草木国土にまで備わっていると説くものがある。道元もまた、人間以外のものを引き合いに出しながら「仏性」を説いているので、基本的にはありとあらゆるものに仏性が備わっていると考えていたといえる。だが道元には一方で、仏性は無為にしては現成せず、修行によって始めて現成するという思想もあり、一筋縄ではいかないところがある。

「正法眼蔵」第二「魔訶般若波羅蜜」の巻が説かれたのは天福元年(1233)、現成公案」を説いた翌年、道元満三十三歳の年である。「現成公案」に引き続き、空の思想を説いている。それを道元は、「般若心経」及び「大般若経」の経文を引用し、それに注釈を加えるかたちで説くという方法をとっている。併せて道元が古仏と呼ぶ天童如浄の教えを紹介している。般若心経を読んだことのある人には、わかりやすい説明だと思うので、テクストにそった逐語訳はせずに、ポイントとなるところをとりあげて、小生なりの評釈を加えたい。段落ごとにとりあげ、漢文は読み下し文にしてある。

心身脱落の結果現れるのはさとりの境地である。そのさとりとはいかなるものかについて書かれたのが「現成公案」の後半部である。以下テクストにそって読み解く。原文と現代語訳を併記する。

現成公案の巻の主要テーマは「心身脱落」である。それがいかなるものかについて、次の文章(第七節以下)が簡略に示している。

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NHKの能楽番組(古典芸能への招待)が、昨年人間国宝に指定された宝生流シテ方大坪喜美雄をフィーチャーして、能「百万」を放映した。この曲は、観阿弥が曲舞を始めて能にとりいれたものとして知られている。それを息子の世阿弥が改作して、今日のような形になった。とはいえ、観阿弥の能の特徴がよく保存されている。現在能の形式をとっていることや、芸尽くしのにぎやかさといった要素が指摘できるのである。そういう点では、わかりやすく、また楽しい曲である。

「正法眼蔵」七十五巻本の冒頭を飾るのは「現成公案」である。この七十五巻本は、現行の岩波文庫に採用されているものだ。道元自身の編集意図が働いているといわれているから、道元はこれ(この巻)を、正法眼蔵全体の序文のようなものと位置づけていたと思われる。巻末の奥書には、「天福元年(1233)中秋」に書いたと記されており、その年道元満三十三歳であって、「辯道話」を書いてから二年後のこと、正法眼蔵のなかにおいて最も早く書かれたものでもあるから、冒頭に置かれるにふさわしいといえよう。その内容は、道元が天童の師匠如浄の教えに導かれて、心身脱落したさまを記したものだ。心身脱落はさとりの境地をあらわす言葉だから、道元は自らのさとりを記すことから、正法眼蔵の執筆を始めたわけである。道元は、その二年前に書いた「辯道話」では、みずからのさとり自体については、表立って触れていない。この「現成公案」においてはじめて、それに触れたのである。

辯道話のうち、問答の部分の続き。「とうていはく。この坐禅をもはらせん人、かならず戒律を厳浄すべしや」。この問いに対しては、「持戒梵行は、すなはち禅門の規矩なり、仏祖の家風なり。いまだ戒をうけず、又戒をやぶれるもの、その分なきにあらず」と答える。持戒梵行はなすべきことだが、戒をうけず、又戒をやぶったものでも、座禅をする資格がないわけではない、という。

辯道話の後半は問答集である。分量的には全体の三分の二以上を占める。仏教にはさまざまな教えがあるなかで、何故只管打坐を強く主張するのかということを中心にして、道元の主張に異議を唱えた相手に、道元がいちいち答えていくことを通じて、道元の思想の概略が説明されるという体裁になっている。それ以前での総論的な主張を、各論的に展開したものということができよう。

道元が「辨道話」を書いたのは寛喜三年(1231)、四年にわたる宋留学から帰国して四年後のことだ。その時道元は京都深草の廃寺の近くに草庵をもうけて、ひっそりと修行を続けていた。後に高弟となる懐奘が師事を許されるのは文暦元年(1234)のことである。

森清の著作「大拙と幾多郎」は、書名の如く鈴木大拙と西田幾多郎の交流をテーマにしたものだが、かれらの思想に触れることはまったくといってよいほどないので、思想面からこの両者の関係が語られることを期待していた読者には肩透かしになるだろう。その上、大拙・西田以外に多くの人物の伝記が語られる。これらの人物をなぜ語るかというと、かれらの墓が、大拙・西田の墓がある北鎌倉の東慶寺に並んでたっているからというに過ぎない。その一人として安宅弥吉なる人物が出てくるが、この人物には何らの関心ももっていない小生のようなものには、かえって目障りにうつる。だから、そうした余剰の部分の記述は、飛ばして呼んだ次第だ。

西洋的な見方と比較して、もっとも東洋的な見方といえるものは、自由についての見方だと大拙はいう。自由というと、西洋的な見方では、消極的な意味合いしかない。英語で自由をフリーダムというが、フリーダムとは「何ものかからの自由」である。たとえば、束縛からの自由とか、誘惑からの自由といった具合に。つまり西洋的な自由は、つねに逃れるべきなにものかを前提している。それに対して東洋的な見方では、自由は消極的なものではなく、積極的なものである。何ものかからの自由というと相対的な意味合いになるが、東洋的な見方では、自由はそれ自体としてある。つまり絶対的な意味合いをもっている。

「東洋的な見方」は、鈴木大拙の最後の著作であり、いわば遺書みたいなものだ。かれはこれを、1963年93歳の時に出版した。いま岩波文庫から出ている「東洋的な見方」は、大拙の死後に、西田幾多郎の研究者としても知られる上田閑照が編集しなおしたものである。原作に収められた14篇の文章のほか、同時期に書かれた文章を合わせ、34篇からなる論文集としたものである。

真宗を含めた浄土宗の本質的な特徴は他力の信心ということにある。他力の信心の具体的な内容は阿弥陀如来への信仰というかたちをとり、その阿弥陀如来には一神教的な人格神の要素が強くあるから、他力の信心は人格神崇拝というべきところを持っている。他の大乗仏教各派は、やはり釈迦という人格を信仰するのであるが、人格としての釈迦自身よりも、釈迦が体現している真理への信仰という形をとっている。その真理は法身と呼ばれるので、ある意味抽象的なものへの信仰である。それに対して浄土宗は、人格としての阿弥陀を信仰し、しかもその信仰には自力の要素は一切ない。他の大乗仏教には、日蓮宗も含めて、修行などの自力の要素が残っているのに対して、浄土宗は徹底して他力の信心を追及しているのである。

浄土とは何かについて、大拙はまず「無量寿経」によりながら、その概要について示したのであるが、更に曇鸞の「浄土論註」によりながら詳細に説明する。「浄土系思想論」の第三の小論「浄土観続稿」がそれである。

鈴木大拙は「浄土系思想論」において、人はなぜ浄土を求めるかについて説明したあと、その浄土がいかなるものかについての説明に移る。「浄土観・名号・禅」と題する一文がそれにあてられている。「浄土観」というのは、浄土とはいかなるものかについての理解をあらわす言葉である。

鈴木大拙が「浄土系思想論」を書いたのは昭和16年(1941)から17年(1942)にかけてのこと。書き終わったときには、72歳になろうとしていた。大拙はもともと禅の修行者・研究者として出発したのだが、老年を迎える頃に浄土系とりわけ真宗に深い関心を寄せるようになった。それには、51歳の年で真宗の大谷大学に招かれたということもあるが、なによりも、禅と真宗とに深い共通点があることに気づいたからだと思う。禅は、基本的には自力信仰であり、真宗などの浄土系信仰は他力信仰なので、両者は真逆のように思われがちだが、大拙は、自分自身の宗教的実践を通じて、両者には深い共通点があることに思い至った。それは、禅でいうところの涅槃と、真宗がいうところの浄土とが、非常に似通ったものであるということであった。涅槃も浄土も、ふつうは人間の死後の世界と考えられているが、大拙の考えでは、いづれも現世(大拙はそれを娑婆という)と異なったものではないということになる。ということは、人間は生きながらにして、涅槃とか浄土の境地に至ることが出来るということである。そのように確信した大拙は、晩年、禅と浄土特に真宗とを、同じ土俵の上で論じるようになる。

今日岩波文庫から出ている鈴木大拙の「禅堂生活」は、1934年に英文で出版した The Training of the Zen Buddhist Monk を翻訳したものである。それに、日本語で書いた五編の小文を併載している。

「禅問答と悟り」は、昭和十六年(1941)大拙満七十歳のときの著作である。タイトルにあるとおり、禅問答と悟りをテーマにしている。大拙のこの本でのスタンスは、禅というものは悟りをめざしているのであり、悟りを伴わない禅経験はありえないということと、その悟りとはいかなるものか、それを他人にわからせるのが禅問答であるということになる。だから、禅問答は悟りの内容を披露しあう実践である。

機根は根機ともいうが、それは「型」のことだと大拙は言う。「型」とは、ものの考え方のスタイルとか振る舞い方(或いは生き方)をさしている。その「型」つまり機根が、禅と真宗とでは違う。大拙は宗教感情の源というべき「無心」について、道元がそれを「心身脱落」と言い、真宗が「自然法爾」と言っていることを取り上げ、そういう違いは機根の相違から生まれるのだと言っている。

鈴木大拙の著作「無心ということ」は、昭和十四年に行った講演をもとにしている。この講演は、浄土真宗の関係者を相手にしたものだった。大拙は、大正十年以後長らく真宗大谷大学の教授を務めており、職業柄ということでもなかろうが、真宗にも大きな関心を寄せていた。大拙は、真宗にも禅の境地と同じようなものがあることに思い至り、禅と真宗とのあいだに架け橋を設けたいと思った。その架け橋を大拙は「無心ということ」に求めた。この講演は、「無心ということ」をカギとして、禅と真宗とを同じ土俵で論じることをめざしたものなのである。

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