日本文化考

第二会は同じ地上で行われるが、場所を寂滅道場から普光法堂に移す。そこで廬舎那仏に代わって文殊菩薩が説法をする。説法の内容は仏のさとりについてである。それとともに、そのさとりを得るためのボサツの心得が説かれる。

華厳経の意義、内容、構成等については別稿(無限の世界観<華厳>)で概説したので、ここでは触れない。華厳経本文を読んでみたい。使用したテクストは、筑摩書房刊「古典世界文学」シリーズ「仏典Ⅱ」収録の「華厳経」の部分。これは漢訳(佛駄跋陀羅訳の六十巻本)からの現代日本語訳(玉城康四郎訳)で、全三十四章中、第一章から第二十一章までをカバーしている。華厳経固有の思想を納めているとされる「十地品」の直前で終わっている。「十地品」は、もともとは独立した経典で、華厳経の中でも最も古層に属するといわれている(上山春平ら)。そこで説かれた思想と、それ以外の章における思想の関係がどうなっているか。上山らは、十地品で説かれた思想が、それ以外の章において発展的に展開されたというふうに言っているが、それらの対応関係はかならずしもわかりやすくはない。十地品の根本思想はいくつかの要素からなるが、そのうち「性起説」は華厳経全体に共通する思想として、ほかの経典にも繰り返されている。だが、「四種法界」とか「円融無碍」といった思想は、十地品特有といっていいようである。

小乗に比較した大乗の最大の特徴は、あらゆる人に仏になる素質があると考えることだ。小乗では、一部のエリートが凡俗から逸脱して僧侶団体を作り、そこで修行に専念することでさとりの境地に達すると考える。しかしそのさとりは、あくまでも人間としてのさとりである。そのさとりの境地に達した人を阿羅漢というが、阿羅漢は仏とは異なる。あくまでも人間の延長である。ところが大乗では、凡俗は人間であることを脱して仏になれると考える。仏教のいう仏とは、基本的には抽象的な原理なのだが、それはさておいて、凡俗が仏になれるというのは、仏教にとっての激烈な転換であったといえる。その転換を大乗仏教が実現したわけである。

「勝蔓経」の「一諦章」は、四諦のうち苦滅諦こそが唯一絶対の真理「一諦」であると説く。われわれ凡俗が、この真理に到達できるのは、われわれ自身の中にそうした真理を獲得する能力が備わっているからであり、それを如来蔵という。経は続いてこの如来蔵について詳しく語ろうとするのであるが、如来蔵については、別に一章を設けて詳説しているので、その部分を取り上げるときにあわせて触れたいと思う。

「勝鬘経」の「一乗章」は、三乗をすべて含んだ仏乗としての一乗の意義について説き、また、真実の教えとしての正法とは、無名住地を正しく理解し、それを克服することだと説く。「無名住地」とは全ての煩悩の根源にある煩悩であって、涅槃の境地に達してはじめて超脱できる。声聞や独悟が目指す地では、せいぜい派生的な煩悩が除かれるだけで、根源的な煩悩である「無名住地は」克服できない。大乗の教えたる正法を接受することではじめて「無名住地」が克服できる。

「勝鬘経」は、聖徳太子の「三経義疏(法華義疏、勝鬘経義疏、維摩経義疏)」の一つであることもあり、日本では古代からよく知られたお経であった。大乗仏教の基本的な思想をほぼ漏れなく盛り込んでおり、大乗仏教を体系的に学ぶに適したお経である。古いお経だと思われるが、「法華経」の一乗思想と同じ思想を強調していることから、「法華経」より後に成立したのではないかと推測されている。また、一乗思想の強調と抱き合わせで、声門や独覚などの小乗を厳しく批判しているところは「維摩経」に通じる。「維摩経」は「般若経」と「法華経」の中間に位置すると思われるので、この「勝鬘経」は、「維摩経」が受け継いだ「般若経」の空の思想と、「法華経」の一乗思想とを集大成したものといえよう。

日蓮は生涯におびただしい手紙を書いた。それらは、相手の能力に応じて法華経の教を説いたものだが、そこには日蓮の人間性が強く感じられる。とくに晩年の身延時代に書かれた手紙には、日蓮の慈愛に満ちた人間性が充ち溢れているものが多い。とくに女性に宛てた手紙に、相手の気持ちに寄り添うようなやさしさがある。そうした人間としてのやさしさが、多くの信者、とくに女性をひき付けたのだと思う。ここではそんな日蓮の女性に宛てた手紙をいくつか取り上げ、日蓮の人間性の一端に触れてみたい。

日蓮の時代には庶民の間で即身成仏への関心が高まった。弟子の中には、どうしたら即身成仏できるかについて日蓮に手紙で問い合わせる者もいて、それに対して日蓮は、懇切丁寧というわけではないが、一応答えている。それはひたすら七文字の題目を唱えれば、生きたまま成仏できるというようなものだったが、そこには当然、即身成仏についての日蓮なりの考えが反映されていた。では、日蓮にとって即身成仏とは何だったのか。

「諫暁八幡抄」は、弘安三年(1280)の十二月に書かれた。この年は、蒙古再襲来の前年である。第一次襲来から六年たっており、再襲来近しとの異常な緊張感が日本全土にみなぎっていた。この書はそうした緊張感を背景にして書かれている。文書の名宛人は、日蓮の弟子たちは無論、北条政権はじめ日本の権力者のすべてに向けられていた。題名にあるとおり、この書で日蓮が取り上げるのは日本古来の神への批判である。日本古来の神が、法華経をあなどり、しかも法華経の行者である自分を迫害したことに、仏たちが怒って天罰を下したのが蒙古襲来である。このまま態度を改めねば、日本は再度蒙古に襲来され、滅びるであろう。そういって日蓮は、日本古来の神が法華経に帰依すべきことを説いている。そこには日蓮一流の神祇観が見られる。そういうわけでこの書は、日蓮の神祇観を代表するものとして位置付けられている。

下山抄は、建治三年(1277)日蓮55歳の時に書かれた書状である。あて先は甲斐の下山光基という。光基の弟子稲葉坊日永が日蓮にしたがって法華経に帰依した。光基は念仏行者であり、稲葉坊に阿弥陀堂を守らせていたのであるが、その稲葉坊が念仏を捨てて法華経に走ったというので、光基はいたく怒った。その怒りを解くために、日蓮が稲葉坊にかわって弁明の書状を書いたと言われる。弁明の書であるから、折伏の攻撃性はやわらぎ、相手を説得しようとする熱心さがうかがわれる。じっさい光基はこの書状が大きなきっかけとなって日蓮に帰依するようになった。そういう点では、人を説得する力を感じさせる文章である。

建治二年(1276)、阿波清澄寺の僧侶道善坊が死去した。その報を受けて書いたのが「報恩抄」である。日蓮はこれを弟子の日広に持たせ、身延から阿波まで届けさせている。道善坊は、日蓮が12歳で清澄寺に入山したときの師匠であり、16歳にして得度を施してくれた人物。日蓮にとって、信仰上の父親ともいうべき人物だ。清澄寺自体は天台宗の寺院であり、日蓮も天台の教えを受けたのだったが、その後道善坊は念仏に宗旨替えし、法華経に帰依することはなかった。そんな道善坊を日蓮は厳しい目で見ていたが、さすが恩愛の念は捨てがたかったのであろう、その死を悼んで書を寄せた。しかし、ただの哀悼の書ではない。「報恩」という言葉を使ってはいるが、むしろ道善坊の過ちを責め、その過ちを法華経の功徳によって正してやろうという意気込みがこもっている。そうすることで、道善坊が阿鼻地獄に陥ることを免れ、救われることを願ったのだといえる。


「撰時抄」は佐渡流罪を許され、鎌倉を経て身延山に入ったすぐ後に書かれた。日蓮が身延山に入った動機はさまざまに推測されているが、一番有力なのは、蒙古襲来を恐れたからだという説だ。仮に蒙古が攻めて来ても、身延山までは押し寄せてこないだろうと考えたというのである。

「観心本尊抄」は、正式には「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」という。釈尊の滅後二千五百年目にしてはじめて、「観心本尊」について日蓮が説くのだという気負いの言葉である。二千五百年というのは大雑把な言い方で、正確には釈迦の滅後二千二百五十年である。それは末法の時代にあたる。仏教では、釈迦の滅後千年を正法の時代、続く千年を像法の時代、その後の五百年を末法の時代とする。だから釈迦滅後二千二百五十年目は末法の時代に属する。その末法の時代に日蓮という菩薩が現れて「 観心本尊」を説くというのが、この書の眼目である。

「開目抄」は、日蓮が自らの信念を説いたもっとも重要な書である。日蓮はこれを佐渡へ流された直後に書いた。流されるに先立って、鎌倉龍ノ口の法難と呼ばれる事件があって、日蓮は首を切られそうになったのだったが、折からの天変地異が刑吏を尻込みさせ、九死に一生を得たのだった。日蓮は死一等を減じられて佐渡に流される。その佐渡で、自分の過去を振り返りながら、法華経の行者として、法華経の教えをあらためて説いたのである。そんなわけでこの書には、法華経の行者としての日蓮の決意が延べられるとともに、法華経の教えの核心が説かれている。「立正安国論」以前には、折伏と称して、他宗(特に念仏)への攻撃が中心だったが、ここでは、法華経がいかに優れた教えであるかについて、積極的に説明するというスタンスをとっている。いわば論証の書である。その論証を日蓮は、法華経及び涅槃経を中心とした大乗経典を根拠にしながら行っている。つまり、法華経の優れている所以を、法華経自体に求めるというやり方をとっているわけで、その点では、西洋流の形式論理になれた者には、循環論法のように見えなくもない。

立正安国論は、文応元年(1260)、国主諫暁の書として、時の執権北条時頼宛てに幕府に呈上したものである。奥書によれば、正嘉元年(1257)の大地震に遭遇して国主諫暁を思い立ったという。この大地震に限らず、当時の日本はさまざまな天変地異が襲っていた。その原因を日蓮なりに考え、これは正法がすたれて謗法が横行していることに仏や神々が怒っているためだと結論した。したがって謗法を退け正法を復活させることが求められている。時の権力者が中心となってそれをおこなうべきである。その場合に日蓮が謗法として糾弾したのが法然の念仏宗であり、復活すべき正法としたのが法華経・涅槃経を中心とした釈迦の教えであった。しかし、日蓮の議論が時の政権を動かすことはなかった。逆に法敵の怒りをかい、命を狙われるのだった。以後日蓮は、法華経の行者として謗法と戦い続け、それがもとで常に命の危険を感じながら生きたのである。

「守護国家論」は、日蓮のまとまった論書としては最初のものである。正元元年(1259)鎌倉での著作である。時に日蓮三十八歳。比叡山での修行を終え、法華の行者としての自覚を深めた日蓮が、法華信仰の意義を説き、かつ邪法を退けるべき所以を説いたもの。邪法として名指しされるのは念仏と禅だが、ほとんどが念仏への非難に費やされている。その意図を日蓮は、邪智の聖人(法然)が、「末代の愚人の為に一切の宗義を破して選択集一巻を作り・・・実教を録して権経に入れ、法華真言の直道を閉じて浄土三部の隘路を開く」ことは赦せんと言っている。

岩波書店の「日本思想体系」シリーズの「日蓮」の編には戸頃重基と高木豊による解説が付されている。新書一冊分ほどのボリュームがあって、日蓮へのガイドブックとして手頃である。戸頃が日蓮本人の生涯と思想について、高木が日蓮の後世への影響について述べている。日蓮へのガイドとしては、ほぼ同じ時期に出た「仏教の思想」シリーズの日蓮特集「永遠のいのち」もあり、この両者を読めば、宗派の立場とは別の視点から、日蓮の大まかな姿を捉えることができよう。

日蓮を読む

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日蓮は宗教者であって、われわれ普通の日本人にとっては日蓮宗という鎌倉仏教の宗派を創始した人、つまり教祖という位置づけだろう。日蓮自身は、自分をそんなふうには思っておらず、あくまでも法華経の行者という意識を持ち続けた。もっとも晩年には、蒙古大襲来などもあって、日本の現状に対する危機意識が高じた余り、自分こそがその日本を救うべき人であり、日本人の師、父母であると言い、あげくは上行菩薩の生まれ変わりとしての日蓮大菩薩であると言うまでになった。

紀野と梅原は「日蓮の思想と行動」と題して、日蓮について語り合うのだが、二人とも熱心な日蓮ファンだから、おのずと日蓮賛美の合唱といった体裁を呈する。日蓮には、人を熱中させるものがあるというように。たしかに、日蓮には人を熱中させるものがあるのだろう。熱中の真逆は反発だが、日蓮ほど強い反発を受けたものもまたない。存命中は度重なる迫害(法難)を受けたわけだし、現代人、とくに日本のインテリには日蓮を嫌うものが多い。それは日本文化にとってよくないことだ、と二人は口を揃えて言う。日蓮を正しく評価することなしには、日本文化の望ましい発展はないというわけである。

日蓮を取り上げた「仏教の思想シリーズ」の最終巻「永遠のいのち」の第三部を、梅原猛は「日蓮の人生と思想」と題して、日蓮の人生の歩みを梅原なりに振り返りながら、日蓮の仏教思想の展開をたどっている。梅原は、やはり日蓮が好きらしく、その語り方には、日蓮に対する熱い思い入れが込められている。

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