日本文化考

菩薩の十地の第二は「垢れをはなれた菩薩の地」である。第一の地を成就すると、かの菩薩には十種の道心が現前する。すなわち、(1)誠実なる道心(正直心)、(2)柔和なる道心(柔軟心)、(3)無碍自在なる道心(堪能心)、(4)練磨された道心(調伏心)、(5)静寂なる道心(寂静心)、(6)うるわしい道心(純善心)、(7)純一無雑なる道心、(8)無欲恬淡なる道心、(9)広大なる道心、(10)大乗の真理のままなる道心(大心)である。

菩薩の十の地の第一は「歓喜にあふれる菩薩の地」である。これは菩薩道の修行の最初の段階で、さとりを求める心が生じることでその境地にいたる。さとりを求める心は、菩薩の道を究めて、ついには如来の境地にいたることをめざすが、その第一段階が「歓喜にあふれる菩薩の地」なのである。この地に立つことは、菩薩の十の位をすべて通り抜け、仏になる準備を整えることにつながる。無暗に修行するのではなく、計画に従って修行する。その計画はあらかじめ示されている。それは隊商のリーダーが出発に際して目的地までの道筋をすでに頭の中に描いているのと同様である。さとりを求め修行を始めた菩薩はすでに終着点を見据えているのである。そうお経は語り、これから菩薩が経めぐる修行の十の段階として菩薩の十地を説明するのである。

十地経はもと独立した経典だったが、のちに華厳経に統合されて「華厳経十地品」となった。十地経と華厳経本体のどちらが古いかについては、定説はないようだ。上山春平は十地経が華厳経のもっとも古層に属していると言っている(角川書店刊「仏教の思想シリーズ⑥無限の世界観<華厳>)。それに対して、華厳経本体のほうを古いものと見、十地経はそれにあとから付け加わったとみる見方もある。その見方は、華厳経の特徴である十種の分類法がまず成立し、その分類法を菩薩の位に適用するという考えが生じて、その考えに基づいて十地経が編纂されたのではないかと推測する。

第五会「兜率天宮会」は、説法の場が兜率天にかわる。兜率天は夜摩天よりさらにはるか上空にある。そこに如来が赴くと、兜率天王が獅子座をあつらえてお迎えし、大勢の天子とともに如来を供養した。また、無数の世界から無数の菩薩たちが集まってきて、如来をほめたたえた。その中には、金剛幢菩薩、堅固幢菩薩、夜光幢菩薩、離垢幢菩薩がいた。古来兜率天の内院にいるとされる弥勒菩薩は登場しない。

華厳経第十八章「十無尽蔵品」は、その前章の「十行品」とともに、第四会「夜摩天宮会」の本論をなす。「十行品」は菩薩がさとりを得るためになすべき行いを説いたものであるのに対し、この「十無尽蔵品」は、菩薩には仏になるべき素質が備わっていると説くものである。このように、菩薩に代表される衆生に本来仏となるべき素質つまり仏性がそなわっているとする思想を如来蔵思想という。衆生にも如来と全く同じ仏性が備わっていると見るのである。この「十無尽蔵品」は、その如来蔵の具体的な内容を説く。ここではそれを単に「蔵」と呼び、それぞれの蔵が無尽であることを強調している。

第四会「夜摩天宮会」は、舞台を夜摩天に移す。夜摩天は、忉利天のずっと上空にある。そこに仏が移り、獅子座に結跏趺坐すると、夜摩天王のほか大勢の菩薩たちが周りを取り囲んで礼拝する。菩薩たちが仏をたたえる言葉の中には、華厳経の独特の世界観も含まれている。中でも力成就林菩薩が述べる唯心論思想は、華厳経の核心的世界観といえるものである。それは、「心と仏と衆生とは、互いに無差別であり、たがいに尽きることがない。一切はことごとく心とともにうごく」という主張であり、「三界唯心」と呼ばれる思想である。その詳細については、第六会「他化自在天宮会」第二十二章「十地品」において説かれる。それに先立って、この「 夜摩天宮会」では、菩薩の十行と十の無尽蔵について説かれる。

第三会は「忉利天会」と題して忉利天を舞台とする。忉利天は須弥山の頂にあって、帝釈天が主催している世界である。そこへ世尊がやってきて獅子座に結跏趺坐すると、その周りに無数の菩薩たちが集まってきた。その菩薩の中から、法慧菩薩が一同を代表して、菩薩の十住を説いた。この 忉利天会における説法以後、第六会までは、天上界での説法が続く。

「十種の甚深」が説かれた後、第七章「浄行品」では菩薩のなすべき修行が述べられ、ついで第八章「賢首菩薩品」で修行のもたらす功徳について説かれる。「浄行」とは菩薩のなすべき修行のことをさし、それは清浄で、ものに動じない身口意の三業を得ることだと説かれる。身口意とは身体、言葉、意思、つまり人間の働きのすべてをいう。その三業を清浄で、ものに動じないものとするのが「浄行」のとりあえずの目的である。究極の目的は、衆生の救済ということにある。

第二会は同じ地上で行われるが、場所を寂滅道場から普光法堂に移す。そこで廬舎那仏に代わって文殊菩薩が説法をする。説法の内容は仏のさとりについてである。それとともに、そのさとりを得るためのボサツの心得が説かれる。

華厳経の意義、内容、構成等については別稿(無限の世界観<華厳>)で概説したので、ここでは触れない。華厳経本文を読んでみたい。使用したテクストは、筑摩書房刊「古典世界文学」シリーズ「仏典Ⅱ」収録の「華厳経」の部分。これは漢訳(佛駄跋陀羅訳の六十巻本)からの現代日本語訳(玉城康四郎訳)で、全三十四章中、第一章から第二十一章までをカバーしている。華厳経固有の思想を納めているとされる「十地品」の直前で終わっている。「十地品」は、もともとは独立した経典で、華厳経の中でも最も古層に属するといわれている(上山春平ら)。そこで説かれた思想と、それ以外の章における思想の関係がどうなっているか。上山らは、十地品で説かれた思想が、それ以外の章において発展的に展開されたというふうに言っているが、それらの対応関係はかならずしもわかりやすくはない。十地品の根本思想はいくつかの要素からなるが、そのうち「性起説」は華厳経全体に共通する思想として、ほかの経典にも繰り返されている。だが、「四種法界」とか「円融無碍」といった思想は、十地品特有といっていいようである。

小乗に比較した大乗の最大の特徴は、あらゆる人に仏になる素質があると考えることだ。小乗では、一部のエリートが凡俗から逸脱して僧侶団体を作り、そこで修行に専念することでさとりの境地に達すると考える。しかしそのさとりは、あくまでも人間としてのさとりである。そのさとりの境地に達した人を阿羅漢というが、阿羅漢は仏とは異なる。あくまでも人間の延長である。ところが大乗では、凡俗は人間であることを脱して仏になれると考える。仏教のいう仏とは、基本的には抽象的な原理なのだが、それはさておいて、凡俗が仏になれるというのは、仏教にとっての激烈な転換であったといえる。その転換を大乗仏教が実現したわけである。

「勝蔓経」の「一諦章」は、四諦のうち苦滅諦こそが唯一絶対の真理「一諦」であると説く。われわれ凡俗が、この真理に到達できるのは、われわれ自身の中にそうした真理を獲得する能力が備わっているからであり、それを如来蔵という。経は続いてこの如来蔵について詳しく語ろうとするのであるが、如来蔵については、別に一章を設けて詳説しているので、その部分を取り上げるときにあわせて触れたいと思う。

「勝鬘経」の「一乗章」は、三乗をすべて含んだ仏乗としての一乗の意義について説き、また、真実の教えとしての正法とは、無名住地を正しく理解し、それを克服することだと説く。「無名住地」とは全ての煩悩の根源にある煩悩であって、涅槃の境地に達してはじめて超脱できる。声聞や独悟が目指す地では、せいぜい派生的な煩悩が除かれるだけで、根源的な煩悩である「無名住地は」克服できない。大乗の教えたる正法を接受することではじめて「無名住地」が克服できる。

「勝鬘経」は、聖徳太子の「三経義疏(法華義疏、勝鬘経義疏、維摩経義疏)」の一つであることもあり、日本では古代からよく知られたお経であった。大乗仏教の基本的な思想をほぼ漏れなく盛り込んでおり、大乗仏教を体系的に学ぶに適したお経である。古いお経だと思われるが、「法華経」の一乗思想と同じ思想を強調していることから、「法華経」より後に成立したのではないかと推測されている。また、一乗思想の強調と抱き合わせで、声門や独覚などの小乗を厳しく批判しているところは「維摩経」に通じる。「維摩経」は「般若経」と「法華経」の中間に位置すると思われるので、この「勝鬘経」は、「維摩経」が受け継いだ「般若経」の空の思想と、「法華経」の一乗思想とを集大成したものといえよう。

日蓮は生涯におびただしい手紙を書いた。それらは、相手の能力に応じて法華経の教を説いたものだが、そこには日蓮の人間性が強く感じられる。とくに晩年の身延時代に書かれた手紙には、日蓮の慈愛に満ちた人間性が充ち溢れているものが多い。とくに女性に宛てた手紙に、相手の気持ちに寄り添うようなやさしさがある。そうした人間としてのやさしさが、多くの信者、とくに女性をひき付けたのだと思う。ここではそんな日蓮の女性に宛てた手紙をいくつか取り上げ、日蓮の人間性の一端に触れてみたい。

日蓮の時代には庶民の間で即身成仏への関心が高まった。弟子の中には、どうしたら即身成仏できるかについて日蓮に手紙で問い合わせる者もいて、それに対して日蓮は、懇切丁寧というわけではないが、一応答えている。それはひたすら七文字の題目を唱えれば、生きたまま成仏できるというようなものだったが、そこには当然、即身成仏についての日蓮なりの考えが反映されていた。では、日蓮にとって即身成仏とは何だったのか。

「諫暁八幡抄」は、弘安三年(1280)の十二月に書かれた。この年は、蒙古再襲来の前年である。第一次襲来から六年たっており、再襲来近しとの異常な緊張感が日本全土にみなぎっていた。この書はそうした緊張感を背景にして書かれている。文書の名宛人は、日蓮の弟子たちは無論、北条政権はじめ日本の権力者のすべてに向けられていた。題名にあるとおり、この書で日蓮が取り上げるのは日本古来の神への批判である。日本古来の神が、法華経をあなどり、しかも法華経の行者である自分を迫害したことに、仏たちが怒って天罰を下したのが蒙古襲来である。このまま態度を改めねば、日本は再度蒙古に襲来され、滅びるであろう。そういって日蓮は、日本古来の神が法華経に帰依すべきことを説いている。そこには日蓮一流の神祇観が見られる。そういうわけでこの書は、日蓮の神祇観を代表するものとして位置付けられている。

下山抄は、建治三年(1277)日蓮55歳の時に書かれた書状である。あて先は甲斐の下山光基という。光基の弟子稲葉坊日永が日蓮にしたがって法華経に帰依した。光基は念仏行者であり、稲葉坊に阿弥陀堂を守らせていたのであるが、その稲葉坊が念仏を捨てて法華経に走ったというので、光基はいたく怒った。その怒りを解くために、日蓮が稲葉坊にかわって弁明の書状を書いたと言われる。弁明の書であるから、折伏の攻撃性はやわらぎ、相手を説得しようとする熱心さがうかがわれる。じっさい光基はこの書状が大きなきっかけとなって日蓮に帰依するようになった。そういう点では、人を説得する力を感じさせる文章である。

建治二年(1276)、阿波清澄寺の僧侶道善坊が死去した。その報を受けて書いたのが「報恩抄」である。日蓮はこれを弟子の日広に持たせ、身延から阿波まで届けさせている。道善坊は、日蓮が12歳で清澄寺に入山したときの師匠であり、16歳にして得度を施してくれた人物。日蓮にとって、信仰上の父親ともいうべき人物だ。清澄寺自体は天台宗の寺院であり、日蓮も天台の教えを受けたのだったが、その後道善坊は念仏に宗旨替えし、法華経に帰依することはなかった。そんな道善坊を日蓮は厳しい目で見ていたが、さすが恩愛の念は捨てがたかったのであろう、その死を悼んで書を寄せた。しかし、ただの哀悼の書ではない。「報恩」という言葉を使ってはいるが、むしろ道善坊の過ちを責め、その過ちを法華経の功徳によって正してやろうという意気込みがこもっている。そうすることで、道善坊が阿鼻地獄に陥ることを免れ、救われることを願ったのだといえる。


「撰時抄」は佐渡流罪を許され、鎌倉を経て身延山に入ったすぐ後に書かれた。日蓮が身延山に入った動機はさまざまに推測されているが、一番有力なのは、蒙古襲来を恐れたからだという説だ。仮に蒙古が攻めて来ても、身延山までは押し寄せてこないだろうと考えたというのである。

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