明治天皇:牧原憲夫「民権と憲法」

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牧原憲夫「民権と憲法」(岩波書店)は、明治維新後に近代日本の骨格が形成されていく過程で、明治天皇が重要な役割を果たしたと評価している。明治天皇は薩長が自分たちの旗印として、あるいは権力の源泉として利用したという側面が強いが、薩長藩閥勢力のたんなる傀儡ではなかった。時に自分の意思を明確に表示し、国の方向に強い影響を及ぼすこともあった、と見ているわけである。

明治天皇が即位したとき、まだ17歳の少年であった。あまり利発とは言えなかったようだ。明治7年というから、すでに24歳にもなっているのに、「君主としては未熟で、侍従長から酒や乗馬にかまけず政務に関心を持つように諌められた」というし、また側近の元田永孚からは、「全体遅鈍の御天質にて、一通り奉接候ては乍恐御不分」(明治11年10月12日下津保休也宛書簡)と評される始末だった。

人の好悪が激しかったようだ。西郷隆盛には強い愛着を抱いていたらしく、西南戦争が始まると、「大臣・参議との面会を拒否したり閣議をさぼるなど、政務放棄の態度をとった」 一方、伊藤博文を西洋かぶれと言ってひどく嫌ったらしい。

しかしその明治天皇に対して立憲君主としての役割を明確に示したのは、伊藤博文だった。

いわゆる明治14年政変によって薩長専制体制が確立されると、伊藤はその翌年から1年半に及ぶドイツ・オーストリアへの憲法調査に赴き、その成果をもとに、井上毅らと憲法の草案作りに取り掛かった。その結果出来上がったのが大日本帝国憲法(明治憲法)である。この憲法を通じて伊藤は、明治天皇に対して立憲君主としての役割を明示したのである。

明治憲法は、天皇の統治の正統性の根拠を国民の意思にではなく、歴史の中に求めた。つまり万世一系という天皇家の系譜に、その支配の正当性の根拠を求めた。そうすることで明治政府は、天皇制に関する神話と、天皇制をめぐる新たな権威の体系を作り上げた。その最たるものは、神武天皇の即位に遡るとされる建国神話と、神社の国教化である。

明治憲法が制定された時点では、明治天皇はまだ現人神としての威光は帯びていなかった。だが、あらゆる国家権力の源泉と位置付けられることで、いずれはそのような存在に祭り上げられていくのは、必然の勢いというものであろう。

天皇は憲法を超越する存在であるから、天皇や皇室にかかわる事項は憲法の中ではなく、憲法の外側で決められた。明治憲法と同時に施行された皇室典範がそれである。皇室典範の作成にあたって最大の問題になったのは、女帝を認めるかどうかであった。一夫一妻の近代的な結婚が天皇へも及ぶことが想定される中で、将来男子の系統が途絶えることも予想されたからである。

日本の天皇制の系譜が男子のみで続いてきたことの背景には、側室の存在がある。明治天皇自体が側室の児であったばかりか、桜町天皇に遡る七代の天皇もすべて妾腹であった。明治天皇についても、正室である昭憲皇太后には子がなかった。明治天皇は側室との間で5人の男子と10人の女子を持ったが、そのうち成人した男子はただひとりしかいなかった。後の大正天皇である。

妾腹の児を天皇の後継者にすることについては、外国への気兼ねも働いたが、結局は大正天皇の即位と、女帝の否定という方針が通った。

天皇は権力の中心になったわけであるから、権力を行使しようとする勢力は、いずれも天皇を通じてそれを行使するように、互いに競争するようになる。その間に齟齬が生じれば、いずれは天皇みずから調停に乗り出すようになる。実際、伊藤や山形ら元老が健在であった時期には彼らがその調整役にあたったが、元老がいなくなると、天皇みずから裁定する場面が増えるようになる。

こうした事情をとらえて、氏は「天皇は輔弼にもとづく受動的な君主であるとともに、ときに独自の判断を下す能動的君主であった」と評している。即位した当時は側近によって遅鈍と評された明治天皇も、次第に君主としての知恵を身につけていったものと思われる。

こうしてあらゆる権力を超越する究極の権威となった天皇は、国民統合の原動力としても機能するようになる。明治憲法体制では、民衆は参政権を持つ国民と、参政権を持たず兵役を課されるだけの非・国民とに分断されていたわけだが、その分断を橋渡しし、いずれも天皇の臣民として同化させる働きを、天皇みずからが果すようになった。その辺の事情を氏は次のように総括している。

「江戸時代には、君主と人格的に結びつき統治の一端を担う家臣と、客分の人民とは明確に区別された。しかし、臣と民を融合させて"天皇の赤子"にしてしまえば、すべての"日本人"を天皇との関係で一元化できる。<臣民>は制限選挙制のもとで"非・国民"を国家に統合するという近代国民国家の要請から生み出された観念であり、参政権もないのに国家の一員として納税・兵役・教育を<義務>と受け止める<国民>ほど、権力にとって好都合な存在はなかった。天皇はまさに国民統合の要であり象徴であった」


関連サイト:日本史覚書





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