ドン・キホーテの狂気

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甲冑に身を固め、槍をかざして名馬ロシナンテに跨り、颯爽とラ・マンチャの草原を行くドン・キホーテ。いかにも英雄的なこの姿は、騎士物語を読んだあげく脳みそがからからになり、自分を憧れの騎士であると思い込んだ不幸な老人の自画像なのだ。

世にも奇想天外な物語として世界中に知られている「ドン・キホーテ」の主人公ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャを、作者のセルバンテスは読者に向かって、狂気に陥った老人として描いているのである。

騎士道物語にすっかり感動したドン・キホーテは、自分自身も騎士道に身を捧げようと決意し、正義を求める遍歴の旅へと出発する。名馬ロシナンテは、現実にはよぼよぼの駄馬であるし、最初に訪れた街道の安宿を堅固な城砦と思いなし、巨人と間違えて風車に突進したりする、つまりこの老人には、空想と現実、虚像と実像との区別がつかない。自分を遍歴の騎士と思い込んでいる限り、周りに展開する光景や出来事はすべて騎士道と関連づけて解釈される。そして、騎士道を実現しようとするドン・キホーテの熱意は、奇想天外な騒ぎへと必ず発展する。それが、読者を含めた第三者の目には狂気と映るわけなのだ。

しかし、ドン・キホーテはなぜ狂気に陥らねばならなかったのか。いかに騎士道物語に感心したとはいえ、騎士の真似事をするのに、何も気違いになる必要はなかろう。実際その通りで、少なくともドン・キホーテ自身は、至ってまじめな気持ちなのである。彼は自分を気違いだとは思っていないのだ。彼はあくまでも、自分を騎士だと思っている。

したがって、この場合、ドン・キホーテの不幸は、彼自身の自己意識に現れた像が、他人の目に移った彼の像と一致しないことにある。

他人にとっては、ドン・キホーテという人物は、実に理解に苦しむ人物だ。というのも、ドン・キホーテが狂っているように見えるのは、限定的な場面でしかないからである。普段のドン・キホーテは実に立派な振る舞いをしておるし、またその言うことも筋道が通っている。ところが、騎士道の事柄になったとたんに、彼の言うこと為すこと、そして振る舞いぶりのすべてが、狂気に彩られるようになる。つまり彼は、騎士道との関連においてのみ、いわば限定的に、狂気に陥るわけなのだ。

その辺の事情を、セルバンテスは登場人物の一人をとおして、次のように描写している。

「それまでのあいだ、ドン・ディエーゴ・デ・ミランダは、一言も口をきかず、ドン・キホーテの仕草に目と耳を集めていたが、気のふれた正直者とも、正気に似た気違いとも思えた・・・というのも、ドン・キホーテの話すことは、すじみちが通り、上品で立派なのに、そのすることは出鱈目であり、無鉄砲で馬鹿馬鹿しかったからだ」(続篇第17章:永田寛定訳)

これは、ライオンを相手にして空威張りするドン・キホーテを見て、ついさっきまで良識ある紳士だったドン・キホーテが、いきなり狂ってしまったかに見えたことに、同行の紳士があきれ返るシーンである。

いっそ狂ったままならわかりやすいのだが、ドン・キホーテの場合にはそうではないから、話がややこしくなる。彼は普段は常識のある紳士なのに、事柄が騎士道のことになると気が狂ってしまうのだ。

こんなところから、ドン・キホーテ佯狂説なども登場したわけだが、しかしドン・キホーテが意識的に狂っているわけではないことは、普通の感覚の読者なら容易にわかることだ。むしろ、彼は狂っているのではなく、狂っているようにみえるといったほうが、気が利いているといえよう。

「ドン・キホーテ」という作品が、中世以来の伝統文學で、彼の同時代にも流行した騎士道物語の、パロディであるとは、よくいわれることである。パロディであるから、そこには当該の対象を攻撃する意図が含まれている。文学の場合、その攻撃は風刺やアイロニーといったレトリックを通じてなされるものだ。ドン・キホーテの場合にも、そうした風刺やアイロニーが至る所に息づいている。そしてそれが攻撃しようとしているのは、騎士道物語が体現している中世的な価値観だといえなくもない。

こんな風に問題設定をすると、次のような事態が見えてくるのではないか。

セルバンテスは、「ドン・キホーテ」という物語の中で、騎士道物語に体現されたような、前時代的な価値観をおちょくってやろうと思ったのではないか。何しろスペインという国は、ルネサンスの波にもっとも遅く洗われた国だ。それ故、中世的な価値観がもっとも堅固に残っていた国であり、また絶対君主制の下で、宗教的反動が猛威を振るっていた国だった。セルバンテスは、一方では中世的な価値観、他方では絶対王政の反動性というものに対して、それを相対化することで、おちょくりをかけようとしたのではないか。

おちょくりのかけ方には色々ある。エラスムスのように、相手方を笑いのめすことで、正面から批判を加えるやり方もある。シェイクスピアのリチャード三世のように、主人公を破滅させてみせることで、間接的に批判するやり方もある。

「ドン・キホーテ」においては、攻撃の対象となった価値観は、ほかならぬ物語の主人公ドン・キホーテによって体現されている。そこが、この物語の構造上最も肝心なところだ。

セルバンテスは、自分が批判の対象としている古い価値観を、もっぱら主人公のドン・キホーテに担わせながら、その価値観を嘲笑しなければならない。その嘲笑は、主人公であるドン・キホーテを嘲笑することで代替されねばならない。しかし、主人公を全面的な攻撃対象に貶めてしまったのでは、物語は成り立たない。アンチ・ヒーローはヒーローにはなれないからだ。そこでセルバンテスは、ドン・キホーテの人格を分裂させて、一つの身にヒーローとアンチ・ヒーローを同居させた。ヒーローとしてのドン・キホーテは勇敢で愛すべき人物である、その人物がまさかと思うようなことをやらかす、その時にはヒーローはアンチ・ヒーローに反転しているのであり、したがってその行為は狂気の沙汰だという風に解釈される。

つまりドン・キホーテにまつわる狂気とは、笑いの仕掛けなのだと考えることができる。笑いが目的にしているのは風刺であり、その風刺が目指しているのは古い価値観を攻撃することである。

このようなドン・キホーテ解釈は、大風呂敷を広げたように思えるかもしれない。しかしそんな解釈も許すほど、「ドン・キホーテ」は間口が広く、懐が深い作品なのである。





コメント(1)

こんにちは。

小生、大分前の学生時代に正続編すべて読みました。
セルバンテスの意図はおっしゃるとおりだと思います。

もっとも、続編は他人の作であるとの話もありますが、
これまたその通りだと思っております。

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