成田龍一「大正デモクラシー」を読む

| コメント(0)
今日「大正デモクラシー」といえば、政党政治が実現し社会運動が展開した時期とする見方が支配的である。高校の日本史教科書にもそのように記述されている。しかし子細に検討すれば、時期や内容、あるいは歴史的な評価に至るまで、論者によってまちまちであり、統一した理解が成立しているとは言い難い、と歴史学者の成田龍一氏はいう。(「大正デモクラシー」岩波新書)


氏自身は「大正デモクラシー」を、20世紀初頭の日本で成立した歴史的な現象として見、基本的には民衆の政治参加への意思が普選運動として結集し、本格的な政党内閣を現出させた運動と見ながらも、それを政治の分野の現象と狭く捉えるのではなく、帝国主義~ナショナリズム~植民地主義~モダニズムとの関連にわたる広範な社会現象としてとらえているようである。したがって、その時期も、日露戦争の終結直後から、満州事変の勃発までのほぼ四半世紀にわたると考えている。

民衆の政治参加への意思と言う場合に、氏が最も注目するのはその発現形態である。日本の民衆は幕末から明治維新にかけても様々な形で政治的な意思を表明し、自由民権運動と言う形で、政府との激しい対立を経験してもいたが、そうした直接行動を中心とした動きが、大正デモクラシーにとっても大きな役割を果たしたと氏は見ているわけである。

日露戦争の講和をめぐって民衆の不満が爆発した日比谷焼打ち事件を、氏は大正デモクラシーの始まりを告げるサインだと見、1912年の第一次護憲運動を経ていわゆる閥族政治が打破され、1918年の米騒動を経て本格的な政党政治が成立していく過程を大正デモクラシーの中核をなすものだと考えている。その過程で民衆は、単なる統治の客体に甘んじるのではなく、統治にあずかることを要求した。そしてその要求を、為政者たちが無視できなくなったときに、政治的な変動が起きた、と見るわけである。

日比谷焼打ち事件を見れば、民衆の要求は比較的単純な動機に基づくものだったようだ。日露戦争を通じて大規模な徴兵が行われ、民衆の戦争への直接的な負担が高まる一方、戦争遂行のために重税を課されるなど、生活面での負担も大きかった。そこで民衆は、負担させられるばかりで、その負担に見合う権利を持っていないと考えるようになった。これでは奴隷と異なることはない。自分たちは閥族の野心のために動かされている将棋の駒に過ぎない。こうした不満が根底にあって、講和を巡る閥族政府の弱腰に向かって怒りが爆発したという側面が強い。そう氏はいいたいようだ。

つまり、明治維新以降長く日本を支配してきた閥族政治に、広範囲な民衆がノーを突きつけた。それが日比谷焼打ち事件の本質であり、ここから大正デモクラシーが始まった、と氏は見ているようなのである。

1918年の米騒動は、超然内閣である寺内内閣を辞職に追い込み、原敬による本格的な政党内閣を誕生させた。その誕生を吉野作造は、「何と言っても時勢の進運並びにこれにともなう国民の輿望である」といって祝福した。時勢の進運とは大正デモクラシーの進展であり、国民の輿望とは閥族政治を打破して政党政治を実現し、民衆の意思を政治に直接反映せしめんとする動きをさすことはいうまでもないだろう。

しかし、大正デモクラシーに象徴される民主化の動きは、深く根を張ることはできなかった。原敬による政友会内閣成立後、超然内閣の復活を挿んで、政党間での政権の交代が実現されるまでに至ったのだが、それもつかの間、1930年には浜口雄幸が原敬につづいて暗殺され、1932年には5.15事件が起きて、政党政治が息の根を止められる。政党政治はわずか10年ちょっとの短い時間しか続かなかったのである。

その理由は基本的には、民主主義が定着していなかったということだろう。大正デモクラシーと言っても、一皮むけば浅墓なものであった。それ故、折角普通選挙が実現しても、それが国会を背景にした政党政治の定着に向かうことはなかったし、また、5.15事件の後には、藩閥に替って軍閥の台頭を許す事ともなった。結局閥族の横行を阻止できなかったわけである。

一方帝国主義的な考え方ははるかに強い力を以て民衆の意識を支配した。それが内に向かうとナショナリズムの動きになり、外に向かうと植民地住民に対する優越意識となって現れた、と氏は言う。

植民地に向けられたまなざしについては、高浜虚子のような人間でも、その呪縛から自由ではなかった。虚子は朝鮮人たちを亡国の民として憐れむ一方、彼らを征服した日本人はさすがに偉いと、大国意識をむき出しにして憚らなかったというのである。


関連サイト:日本史覚書 





コメントする

アーカイブ