帝国議会と民党:日本近代史覚書

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明治23年11月、明治憲法のもとで最初の帝国議会が招集され、以後、日本の憲政史が議会を舞台として進展していく。初期の憲政史を基本的に特徴づけているのは、薩長藩閥勢力と民党との対立である。

薩長藩閥勢力は、この頃には第二世代が権力を握っていた。伊藤博文、山県有朋、井上薫、山田彰義の長州勢、黒田清隆、西郷従道、松方正義、大山巌の薩摩勢、この8人をさして、維新の元老の跡を継いだ「元勲」といった。彼らはお互いの間で政権をたらいまわししたが、その政権は超然内閣といって、議会勢力とは一線を画する姿勢を取った。それを可能にさせたのは、内閣が議会によって選ばれるのではなく、天皇によって任命されるという、明治憲法の規定があったからである。

一方議会の方は、自由民権運動の流れを汲む民党が主導権をとった。民党といっても、自由党系の流れや、改進党系の流れがあって、必ずしも一枚岩でなく、超然内閣への対応にも差があった。その相違を、超然内閣は最大限活用して、議会勢力の分断を図った。

民党が共通して目指していたのは、地租の軽減と民力の休養であった。そのために彼らがとった戦術は、政府の経費を最大限削減させて、それで浮いた金を減税に回させるというものだった。これに対して超然内閣は、議会によって予算が削減されることは致し方がないとしても、其れで浮いた金を減税に回すのではなく、野党が喜ぶ公共事業に回そうとした。この政策には自由党が乗ってきたため、超然内閣は道路や通信施設への投資を行う一方、軍備増強にまい進できたわけである。

初期の帝国議会においては、憲政上のルールが明らかでない部分が多く、試行錯誤を通して、ルール作りをしてきた経緯がある。議会側は、権能を大きく制約されたもとで、内閣や天皇との関係において、自らの基盤の強化を図った。その最終的な目的は、薩長藩閥勢力による超然内閣ではなく、議会主導の政党内閣を作るというものだった。それが初めて実現するのは明治31年の隈板内閣であるが、それはわずか4か月でつぶれ、すぐに超然内閣が復活した。政党内閣が本格的に成立するのは、大正時代半ば以降のことである。

内閣と議会は多くの点で対立したが、唯一共通していたのは、条約改正問題への対応であった。両者とも西洋列強との間で結ばされた不平等条約を一刻も早く修正したいとする点で共通していたのである。

しかしその目的は多少異なっていた。政府側が最も重視したのが治外法権の撤廃であったのに対して、政党側は関税自主権の回復にこだわった。当時にあって関税からあがる税収は膨大な金額に上り、それでもって一国の歳入の大部分を補えると試算されていた。それ故関税自主権の回復は財政の基盤を強化することにつながり、ひいては地租などの軽減につなげられると期待されていたわけである。条約改正問題は、日清戦争の勃発と並行して解決への道をたどった。

さて、日本憲政史上最初の政党内閣たる隈板内閣であるが、その成立と崩壊を巡っては様々な問題が指摘される。

隈板内閣は明治31年に民党が大合併して成立した憲政党を母体にしているが、憲政党が成立したきっかけは、第三次伊藤内閣による地租増徴への反発であった。伊藤内閣が地租増徴案の議会による否決に対抗して衆議院を解散すると、自由党と進歩党の中に、政党内閣の実現が可能だとの期待が生まれてきて、その受け皿としての合同政党の機運が生じてきた。こうして生まれたのが憲政党である。

議会が始まって10年になり、その間5回も解散総選挙があったが、民力休養、地租軽減という民党の目的はいまだに実現できていない。それは強力な藩閥勢力を前にして、在野党が離合集散しているからであり、正面から藩閥勢力と対決するためには大同団結して一致協力する必要がある、というのが立党の理念であった。

憲政党が成立したからといって、議会側が主導して内閣を形成したということではなかった。議会に大きな勢力が生まれた事態を踏まえ、元勲たちが自前の内閣形成が困難と見て、憲政党の主導者たちにやらせてみようと考えた結果である。明治天皇も元勲たちの意向を尊重して、大隈と板垣に組閣を命じる。つまり、あくまでも藩閥勢力と明治天皇の考えを踏まえて生まれたということであって、議会の主導によって指名されたというわけではなかったのである。

隈板内閣は陸海両大臣を除いてすべて憲政党員だった。陸海両大臣は、伊藤内閣下の西郷・桂が引き続き留任した。実はこの時点では、両ポストに軍人しかつけないという規定はなく、大隈も民間人の遠山満などを起用しようという考えを抱いていたが、山県が天皇に直訴して、西郷らの留任を求めたのである。これが先例となって、以後軍人が両ポストを独占するようになる。

組閣後ややして衆議院選挙が行われた。与党の憲政党は議席の80パーセントを占めて圧勝した。勝利した憲政党は、様々な新機軸を出した。その最大のものはアメリカ流の猟官システムの導入である。憲政党は多くの高級官僚ポストを奪う一方、すべての局長ポストを自由任用とするなど、政党内閣による行政府の支配を実現しようとした。

これに危機感を抱いたのは薩長藩閥勢力である。もこれが実現したら、行政府の権力に大きく依拠する自分たちの勢力が阻害されることとなる。

こんなことから、薩長によるすさまじい巻き返しが始まる。閣僚への個人攻撃、桂陸相と西郷海相の辞任、旧自由党系の抱き込みなど、さまざまな攻勢が加えられた。その結果大隈首相も辞表を提出せざるを得なくなり、隈板内閣はわずか4か月で、議会を開催することもなく崩壊しさったのである。

(参考)原田敬一「日清・日露戦争」(岩波新書)


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