中村桃子「女ことばと日本語」

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中村桃子女史については、かつて「性と日本語」(NHK出版)という本を読んで、その書評をこのブログでも紹介したことがあった。日本語を特徴づけるとされる「女言葉」が、一部の言語学者がいうように、歴史上女性たちの話し言葉の中から自然に成立した日本独特の奥床しい言葉などではなく、実は作られた言葉なのであり、そこには女性を巡る支配ー被支配という権力構造と、女性を巡るセクシュアリティの日本的なあり方が反映しているのだとするのが、彼女の基本的なスタンスだったように、筆者は受け止めたものだ。

最近岩波新書の一冊として出た「女ことばと日本語」は、そんな女史の日本語論を体系的に、わかりやすくまとめた本だ。これを読むと、日本語における女ことばというものが、どんな歴史的な背景のもとで成立し、どんな社会的な役割を持たされてきたかが、よくわかる。

女史は、日本語において「女ことば」というものが出来上がったのはそんなに古いことではないと考えている。女らしい言葉遣いと言うものは古くからあったのかもしれないが、それが規範の対象として語られ始めたのは鎌倉・室町時代であり、特定の人称詞や文末詞が「女ことば」と見做されるようになったのは明治時代のこと、そして「女ことば」が「日本語の伝統」になったのはアジア太平洋戦争の時代であったと言っている。

鎌倉・室町時代には、上流社会の女子を対象とした女訓書が多く作られたが、そこでは、女子のたしなみとしての言葉遣いが言及されていた。言葉遣いと言っては語弊があるかもしれない。女は言葉遣いに気を付けるよりも、そもそも発話しない(しゃべらない)ことがたしなみとされていたのである。

江戸時代になると、一般庶民の女子を対象にして、大量の女訓書が出回るようになる。そこでは中世以来の女性観と、仏教・儒教思想にもとづく男尊女卑観を反映して、夫やその両親に従う妻・嫁としての立場が強調され、妻や嫁に相応しい丁寧な言葉遣いが強調される一方、女とはそもそも余計なおしゃべりをすべきではないとする、前時代から根強くあった考え方が強調された。「口はこれわざはひのかど、したはこれわざはひのたね」と、江戸時代初期に刊行された女訓書もいっているとおりなのであった。

実際儒学者の貝原益軒などは、女の「他言は口がましきなり。ことば多く、物いいさがなければ、父子、兄弟、親戚の間も云いさまたげ不和になりて、家乱るるもの也。古き文にも、"婦に長舌あるは、是乱の階なり"といえり。女の口の利きたるは、国家の乱るる基となる」といってはばからなかった。

こんな歴史的な背景があったからこそ、あの福沢諭吉ですら、次のようなことを平気で行ったのだと女史はいう。

「"言語を慎みて多くす可からず"とは、寡黙を守れとの意味ならん。諺に、"言葉多きは科少なし"といひ、西洋にも、"空樽を叩けば声高し"との語あり。愚者の多言、固より厭うべし。況して婦人は静かにして奥ゆかしきこそ、頼もしけれ」(女大学評論)

つまり、福沢程の開花論者でも、女はしゃべるなと言っていたわけである。福沢がもっとも嫌悪したのは、女が知識を開陳して議論することで、「教育の進歩とともに、婦人が身柄にあるまじきことをしゃべり、甚だしきは奇怪千万なる語を用いて平気なるは、浅見自ら知らざるの罪にして,唯憐れむ可きのみ」と激しく非難している。

これに比べれば、中江兆民はさすがに進歩的だったと女史はいう。兆民は、女が学問の言葉で議論すると生意気だとする傾向を批判した。「女人の学問なきを憂えて学問をさせて、其上に一言一句も口から出さしめざらんとするは何の論法ぞや」といって、女たちを黙らせようとする男たちの試みに悪意を見て取ったのであった。

明治時代になるとさすがに、女はしゃべるなと言う言説は少数派になったが、そのかわりに登場したのは女ことばへの差別だったと女子は言う。そして、その陰には、言文一致運動に象徴される標準語確立への動きがあったと考える。

明治初期の国語運動は、東京の中流以上の男たちが話していた言葉を、日本語のあるべきモデルとして想定し、標準語の確立に向けて努力を重ねたわけであるが、その過程で、女ことばは標準語から外れたものとして、疎外されていった。その代わりに、女だけが話す言葉として、特定の人称詞や「てよだわ」ことばといわれるような独特の文末詞が特別視されるようになっていった。

その女ことばが、アジア太平洋戦争の最中突如として、日本語の伝統を体現するものだとして肯定的に語られるようになった。女史は、此れもまた言葉を巡る政治的な関係を反映した動きだったと言う。つまり、植民地の人々を日本人に同化する政策がとられる中で、日本語教育の重大性が認識されたわけだが、その過程で、日本語に特徴的な女ことばは、日本語の優秀さや、他に例を見ないユニークさを物語るものとして宣伝されたのであった。

つまり、女ことばは一方では、植民地住民に対して日本の統治の正当性を強化する材料として利用され、日本国民に対しては、植民地支配を正当化する論理として利用された。そのように女子はいうわけである。

一国の言語を、社会史的な視点から論じることは珍しいことではないだろうが、それを支配―被支配といった政治的な視点から論じる女史のような方法は、まだまだ少ないのではないか。

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