伊藤光晴、根井雅弘「シュンペーター」

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シュンペーターは日本では、経済学者としてより政治思想家として有名になってしまったところがある。彼の「資本主義、社会主義、民主主義」は、社会の経済的な発展が、政治体制に与える影響について、骨太の視点を提供したものである。彼によれば、資本主義の発展は必然的に社会主義(厳密に言えば社会民主主義的な混合体制)をもたらし、それが民主主義の拡大につながるというものだ。いわば必然史観というべきもので、彼はこれを若い時代に洗礼を受けたマルクスに触発されて思いついたようである。

経済学者としてのシュンペーターは、イノベーションという言葉と結びついている。イノベーションとは技術革新を通じて経済の基本構造がより一段と進化する事態を指して言う。シュンペーターは企業者によるイノベーションこそが経済発展をもたらす最大の要因であるとして、経済のダイナミックな動きに着目した。したがって彼の経済学は、基本的には供給側に着目した経済学である。1970年代以降、ケインズ経済学が権威を失っていく過程で、シュンペーターが再注目されるようになった背景には、彼の経済学が基本的にサプライサイドを重視するものだったことがあるようだ。

シュンペーターは、はからずもケインズと同じ年に生まれた。経済学者としてはシュンペーターの方が先に名声を確立したが、最終的に勝ち残ったのはケインズの方だった。シュンペーターの供給重視の経済学は、ケインズの有効需要を重視する経済学の影に隠れてしまったのである。

そのケインズに対して、シュンペーターは強い対抗意識をもっていたと言われる。その辺の事情について、伊藤光晴、根井雅弘著「シュンペーター」(岩波新書)は次のように書いている。

「シュンペーターは、資本主義のエトスは企業者の技術革新による動態的な発展過程にあると考えていた。このヴィジョンからケインズの"一般理論"を見る限り、それはあまりにも短期の、静態的な諸過程の上に立つものであった。
「それは政府によって、社会全体の有効需要の動きを操作するというものにほかならず、肝心の供給構造の質的変化、つまり技術革新の側面を不問に付すものであった」

つまりシュンペーターにとっては、従来の古典派の経済学もケインズの有効需要重視の経済学も、所与の時点での所与の経済体制の枠組みの中で、いかに均衡や安定を達成するかと言うことに着目するのみで、経済全体を所与の枠組みを超えて拡大させようとする視点に欠けていたというのである。

であるから、シュンペーターにとっては、「不況は<新結合>《イノベーション》によって創造された新事態に対する経済体系の正常な適合過程であり、ケインズ理論のように、有効需要の不足によって生じたものではなかった」

こうした見方には、たしかにインパクトがある。ケインズの理論では、不足した有効需要を政府が補うことで、当面の不況は避けられる。しかしそれだけのことだ。それは最近の日本経済の動きが物語っているところでもある。政府支出によって、これまでマイナス成長こそ避けられたけれども、それを脱して一段高いレベルの経済発展は展望できていない。それを可能にするためには、経済全体の枠組みを変更させるような事態が起こる必要がある。それをもたらすのは、おそらくイノベーションなのだろう。

こんなわけで、世界中の資本主義国で経済発展が行き詰っている現在、シュンペーターの理論には、なにがしかのインパクトをもたらす可能性がある。

伊東光晴氏はケインズの紹介者として知られているが、シュンペーターにも強い関心を抱いてきたようだ。その関心の中から、今日の経済問題を解決するための糸口みたいなものを探り当てたい。そんな意気込みがこの本からは伝わってくる。

その糸口はどんなものか。それを筆者なりに考えると、次のようになる。新古典派、ケインズ派、シュンペーターの動学理論に、それぞれ相応しい地位と場所を与え、その上で相互の働きあいを強めるというものだ。

まず、静態的な場面にあっては、新古典派とケインズ理論が当てはまる。完全雇用に近い好況下においては新古典派に基づく市場重視の経済理論を適用すべきであり、有効需要が不足する時期にはケインズ理論を適用して不況を克服すべきである。しかしこれらの静態的な理論では経済発展のモーメントは出てこない。それを引っ張り出すためには、シュンペーターのいうような動態的な議論が必要だ。

とはいっても、シュンペーターの理論モデルが経済の動態的な発展をもれなく説明できているかどうかは、いまひとつ明らかでない。まだまだ仮説の域を出ていないのかもしれない。





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