丸山真男の開国論

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丸山真男は、日本は三度にわたって開国のチャンスを迎えたと言っている。(開国「忠誠と反逆」所収)室町末期から戦国時代にかけてがその第一、明治維新がその第二、そして昭和の敗戦がその第三である。「開国」と題した小論では、第二の開国たる明治維新について考察を加えている。

明治維新の動乱を通して、一般の日本人は二重の開国を経験した。西洋諸国に対して開国したという通常の意義の開国のほかに、閉ざされた社会から開かれた社会へと自らを転換させた、それが第二の開国と言うに相応しい強いインパクトをもった、と丸山は考えるのだ。

徳川時代と言うのは、世界史上例を見ないような閉ざされた社会だった。全国に二百数十の領邦国家(藩)が分立し、相互に独立しているばかりか、領邦国家内部でも、人民は堅固な身分秩序に組み込まれ、「農民の土地緊縛をはじめ徒党の禁止・職業移動と旅行の制限・紛争の局地解決主義など」文化と行動とのあらゆる面に渡って「リジッドな定型化」が支配した。

こうしたリジッドな体制は、徳川氏によって意識的に採用された、と丸山はいう。「もし徳川氏が大名分国制の否定の上に全国的なヘゲモニーを確立したならば、それは古典的な絶対主義への道であったはずである。けれども徳川氏は三河以来の譜代を中核とした主従結合をあくまでも権力の核心として維持し、その力によって、公家及び寺社勢力を無力化するとともに、徳川氏と基本的に同じ組織原則にもとづいた外様大名をコントロールした」

こうして出来上がったスタティックな体制を、福沢諭吉は「日本国中幾千万の人類は各幾千万個の箱の中に閉ざされ、また幾千万個の壁に隔てらるるが如し」といった。このような計画的閉鎖社会にあって、宋学的世界像が正統的地位を占めたのは不思議ではない。宋学は世の中の秩序と自然の秩序を同一視し、現行の秩序を永遠不変のものとして合理化してくれたからである。

西洋諸国から迫られた開国は、単に国全体を外国に対して開くのみならず、領邦国家間の関係を流動化させ、上述したようなリジッドな体制を溶解させていったのであった。

開国の結果まず現れた現象は、物価の騰貴と道徳的アナーキーであった。物価の投機は、貿易の結果大量の金銀が流出したことによってもたらされた。物価高で生活を破壊された人々は自暴自棄になり、それが道徳的アナーキーをもたらした。たとえば維新前後の会津若松では、生活のために売春を営むものが数百にのぼり、宇都宮では贋金作りが横行し、「在々処々、押込、夜盗、火付、盗賊流行、不安のことどもなり」といった状態だった。

攘夷運動が活発化した背景には、こうした民衆の間の動きも作用していたのである。そうした民衆の怒りが、まず現行の権力を破壊する力として働き、維新政権ができたのちでは、上からの改革に対する反抗の力として働き、自由民権運動をあれだけ激しいものにさせる原動力になったと考えられるのである。

ともあれ、開国によって国内が流動化し、これまで交際のなかった異質な社会との接触が増えるにしたがって、視野が開けた状態になって、多くの人々が、自分がこれまで直接に属していた集団への全面的な同一化から解放され、自分と社会との関係を意識的・相対的に考えるようになる。そのことは、近代的な個人の成立や、自由な結社の成立を促す力として働くはずだ、と丸山は考える。

しかし明治維新後の動きは、かならずしもそういう方向には進んでいかなかった。明治維新によっていったんは開かれた日本の社会を、新しい指導者となった藩閥勢力が、天皇制国家と言うもうひとつの閉じた社会へと、再び閉じ込めにかかった努力が、効を奏した結果だというのである。そのへんの事情を、丸谷化は次のようにいっている。

「無数の閉じた社会の障壁を取り払ったところに生まれたダイナミックな諸要素をまさに天皇制という一つの閉じた社会の集合的なエネルギーに切り替えていったところに"万邦無比"の日本帝国が形成される歴史的秘密があった」

このあたりの丸山の問題意識は、開国によってせっかく盛り上がった民衆のダイナミックなうねりが、権力によって巧妙にからめとられ、全体主義的な方向へと導かれていった歴史的な現実を前にしての、はぎしりがきこえてくるような無念さを感じさせる。


関連サイト:非政治的人間の政治的省察 





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