南方熊楠の神社合祀反対運動

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南方熊楠の生涯の中で神社合祀反対のために費やしたエネルギーは並大抵なものではなかった。彼はこのために、研究のための貴重な時間を割いたのみならず、乏しい生計資金の中から七千円を費やし、また官吏を威圧したかどで投獄されもした。彼をそれまでに駆り立てた理由は、神社合祀によって多くの神社が無くなる結果、その神社に付属していた森林が伐採されつくすことへの危機感だった。森林伐採によって、生態系のバランスがくずれ、植物の生息に悪い影響が出るのみならず、さまざまな問題を生じさせる。熊楠はそれを座視できなかったのである。

神社合祀というのは明治39年に出された二つの勅令をきっかけとして起こった。一つは同年5月の「府県郷社ニ対する神饌幣帛料ノ供進」というもので、府県社、郷社、村社に対して公費で幣帛料を出せるとした。もうひとつは同年8月の「社寺合併並合併跡地譲与に関する」もので、これは一村に複数の神社ある場合にそれを一つにまとめて、残余の神社の財産は、神林を含めて処分し、その利益を以て神職の給与の原資とするとした。

訓令は神社合祀と神社に対する公費援助の基本を定めたものであったが、その実施は各府県にゆだねられた。そこで、神社合祀に熱心なところとそうでないところでは、合祀の規模が異なる事態が起きたが、熊楠の住んでいた和歌山県や隣の三重県はとりわけ合祀に熱心だった。この両県には熊野の森を始め、日本有数の森林地帯が展開しており、しかもそこは、亜熱帯と温帯とが交叉する地理的条件から、特徴のある生物が多く生息していた。これが神社合祀をきっかけにして森林が大規模に伐採されれば、生物が甚大な影響を蒙るだけでなく、住民の生活環境にも重大な影響が及ぶ。そう考えた熊楠はついに神社合祀反対の運動に立ち上がるわけなのである。

熊楠が公然と反対運動を始めるのは、明治42年頃のことである。同年9月頃から地元紙牟婁新報に神社合祀反対の意見を発表し始め、翌年8月には県吏田村某に面会しようとして乱暴を働いたかどで18日間にわたった拘留された。また、明治44年には植物学者松村任三宛に神社合祀反対と自然保護について条理を尽くした手紙を書いて支援を要請したが、これは柳田国男によって「南方二書」と題して印刷、配布された。また、明治45年には、雑誌「日本及日本人」に「神社合併反対意見」という論文を掲載した。

「南方二書」においては、神社合祀がいかに不純な動機によって推進され、その結果森林が大規模に伐採されて貴重な自然が失われていく悲惨さが、熊楠特有の迫力を以て語られている。また、「反対意見」においては、神社合祀の影響を、単に自然保護の観点のみならず、広範囲な視点から分析している。

そもそも明治39年、原内務大臣の時に神社合祀の訓令が出た際には、合祀の対象となったのは淫祠の類であって、何が何でも数をつぶせということではなかったはずだ、と熊楠は松村任三宛書簡の中でいう。「国史、延喜式に載りたる神社、勅裁準勅裁諸社、皇室の御崇敬ありし諸社(行幸、御行、奉幣、祈願、殿社造営、神封、神領、神宝等寄進ありしもの)、武門、武将、国造、国司、藩主、領主の崇敬ありし神社、祭神その地方に功績あり、また縁故ありし諸社は合祀すべからず、また景勝地勢土俗に関係重きものもしかりとのことにて、つまり八兵衛稲荷とか高尾(遊女)大明神とか、助六天神とか埒もなき後世一私人、また淫祠凡俗衆が一時の迷信から立てた淫祠小社を駆除するにつとめたものなり」

ところが原内務大臣が去るとたちまち方針がかわり、一村一社が錦の御旗になるとともに、一社につき5千円の基金を用意できない場合には廃止すべきと言うことになって、由緒ある神社が次々と合祀廃止されるようになった。その5千円の基金と言うのが、我利我利亡者の神主を養うためだというから解せないことだと熊楠は立腹する。

和歌山と三重は神社合祀がもっとも大規模に行われたところだった。熊楠は明治44年6月25日現在の状況を大阪毎日の記事を引用して紹介している。それによれば、三重県では現存神社942、滅却神社5547、和歌山県では現存神社790、滅却神社2923。三重県では神社の数は6.8分の1、和歌山県では4.7分の1にまで減ってしまった。一方長野県では1.2分の1、埼玉県では2.1分の1に減ったに過ぎない。ところが保存に値するような貴重な神社はかえって和歌山や三重の方に多いのである。

こうした動きに対して熊楠は身を挺して立向かったが、何のすべもなく食い止めることができなかったといって、嘆いている。「小生すでにこの三年空しく抗議して事はますます多く、妻子常に悲しみ、自分は力と財とますます減りゆき、また所集の植物を発表することもできず、訴うるところもなく困り切りおれり」

かくまで合祀が強行された背景には、神林をめぐる利権があったと熊楠は見る。群長などいう役人は土地のものにはあらず、したがって土地への愛着もなし、その連中が合祀滅却した神社の神林を木材業者に公売にかけ、其の売上金をネコババしているというのが実態だ、また、神林に関する権利を主張するならず者がいて、その連中が合祀したあとの神社の神林を横取りしようとする陰謀も横行している。そういうけしからぬ動機があるからこそ、合祀がかくまで進行するのだと熊楠は憎々しげに見ているわけである。

その結果、あの熊野古道沿いにある由緒ある神社群(九十九王子社)も続々と合祀滅却され、神林は徹底的に伐採され、「回々教の婦女の前陰を見る如く全く無毛」となってしまった。そういって熊楠は嘆くわけなのである。

神社合祀がもたらす悪影響について、熊楠は「神社合併反対意見」のなかで列挙している。簡単に紹介すると、①敬神思想を損なう、②人民の融和を妨げ、自治機関の運用を妨げる、③地方を衰微させる、④庶民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を乱す、⑤愛郷心を損じる、⑥土地の治安と利益に大害あり、⑦景勝史跡と古伝を隠滅する、などである。

こうしてみれば、熊楠は神社合祀の問題点を、自然保護から地位の発展にかけて、総合的な見地から土地上げていたことが伺える。熊楠こそは、日本における地域主権の思想の先覚者ともいえると思う。


関連サイト:南方熊楠の世界





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