2013年5月アーカイブ
2005年に描いた浅草の町屋の風景画をもとに、描きなおしたのが上の絵。下は、その際に付した小文だ。
先般安倍政権の産業競争力会議を舞台にして解雇規制の緩和が論じられたことは記憶に新しい。その際には、金銭でもって解雇ができるようにとの議論が有力になったが、結局安倍首相自らの判断で、この議論は打ち切りになった。経営側のあまりにもえげつない意図に寄り添っているとして、広範な批判を呼んだことに、安倍首相が、彼独特の臭覚で反応した結果である。
ところが、同じような議論が今度は、規制改革会議を舞台に論議されている。こちらは、産業競争力会議の時とはちょっと違った切り口で、解雇規制を容易にしようとする議論が進行しているらしい。
「風の中の牝鶏」は昭和23年に作られた、小津安二郎の戦後第二作である。小津はこの映画で、戦争がいかに人々の生活に破壊的な影響をもたらすかについて淡々と描いている。あまりに淡々として、戦争を正面からは問題にしていないほどだ。問題にしているのは、罪を犯した女性とその夫の心の風景である。それがあまりにも当たり前のように描かれているので、見ている者はやるせない気持ちになる。実に悲しい映画なのだ。
NHKスペシャル「病の起源」第二集は脳卒中の特集だ。脳卒中は人類だけに見られる病だという。人類の兄弟分たるチンパンジーには、野生状態では見られない。ということは、これは人類が進化の代償として背負った病気の代表格ともいってよい。
「ヨハネ黙示録」第五・第六の封印の場面に続いて、第7章では「刻印を押されたイスラエルの子ら」の場面が展開される。その場面はテクストでは次のように書かれている。
東京を描く市民の会が立教大学で撮影会を催すというので出かけてみた。池袋の駅で降りて、すさまじい混雑の中を歩き、集合時間の1時ちょっと前に正門前についてみると、数名の人が立っていた。結局筆者を含めて8人と云う小規模な撮影会になった。その中には先日小石川でお世話になった村田女史もいる。
エミリー・ディキンソンの詩から「わたしは美のために死んだ(I died for beauty, but was scarce)」(壺齋散人訳)
わたしは美のために死んだ
そして墓に横たわるや否や
真実のために死んだ人が
隣りの部屋に横たえられた
2004年の10月に西銀座の外堀通りの風景を描いたことがあったが、このたびそれを描き直してみた。以下はオリジナルの絵に添えた短文である。
NHKスペシャル「病の起源」第一集は「がん」の特集だ。がんは多細胞生物の宿命と言われており、人間以外の動物でもかかる。そのひとつの証拠として、1億5千万年前に生きていた恐竜の化石からもがんの痕跡が見つかった。しかしその発病率は、人類の場合飛躍的に高い。兄弟分のチンパンジーと比較しても、チンパンジーのがん死亡率が2パーセントなのに対して、人類(日本人)のそれは実に30パーセントである。何故、人間はこんなにもがんになりやすいのか。その秘密は人間の進化にある。人間は進化の代償としてがんになりやすい宿命を背負ったというのだ。
「長屋紳士録」は小津安二郎の戦後第一作だ。上映されたのは昭和22年4月、東京を始め日本中の町にまだ瓦礫の山が残っていた頃だ。それなのにこの映画で展開されたのは、瓦礫の山ならぬ、別天地のような長屋を舞台に演じられる人情劇だ。人情劇であるから伝統的な人間関係がテーマであるかのように思わせるところがある。いってみれば時代を超越しているのだ。だから戦後の東京の殺風景な風景など問題にならない。当時の批評のなかには、これを時代錯誤も甚だしいとこき下ろすものもあったそうだが、それはこの映画の脱時代性に着目してのことだったのだろう。
ガン、糖尿病、腰痛、アレルギーなど、人類は様々な病気に悩まされているが、こうした病気の中には、人類特有といえるものがある。たとえば腰痛。これは人類の兄弟分たるチンパンジーには殆ど見られないのに対して、人類では実に四人に三人の割合で悩んでいる。これは、人類が二足歩行したことによってもたらされたものだ。このように、人類の進化の代償としてもたらされた病気が沢山ある。そうした病気のメカニズムを解く学問を進化医学というが、この医学によって病気に新しい光があてられ、ついては今後の予防につながっていく可能性があるのではないか。そんな期待を込めて、NHKが進化医学の現状を紹介していた。NHKスペシャル「病の起源」シリーズがそれだ。その第一回目が先日(5月18日)の夜放送され、筆者は興味深く見た。
国連食糧農業機関(FAO)が、将来予想される食糧危機への対策として、昆虫を食べるように推奨しているそうだ。昆虫は栄養価に富んでいる。グラム当たりの蛋白質は牛肉に匹敵するし、魚と同じ量の脂肪酸を含有し、その他ビタミンや繊維質も豊富だ。一番の強みは、牛や豚などの家畜類に比べ、繁殖が容易なことだ。広いスペースも必要としないし、排せつ物から発生するメタンガスが環境を汚染する心配もない。いいことづくめだ。本格的な栽培が実現すれば、人類にとっての貴重な食料となるに違いない。
四つの封印が解かれて黙示録の四騎士が呼び出された後、子羊は続けて第五、第六の封印を解く。その結果現れたのは、最後の審判の舞台となる場面であった。その場面を、ヨハネの黙示録は次のように書いている。
英誌エコノミストの最新号が、カバーストーリーにアベノミクスを取り上げている(Abe's master plan :Shinzo Abe has a vision of a prosperous and patriotic Japan. The economics looks better than the nationalism)。この記事は、アベノミクスの三本の矢のうち、一本目の金融政策が効を奏して日本経済が俄に活性化したことを評価する一方で、二本目の矢である財政出動には限界があること、また三本目の矢である成長戦略としての構造改革には農業や医療分野からの根強い抵抗が予想されるなど前途には厳しいものがあるともいっているが、全体としてはうまいスタートを切ったと評価している。
能「求塚」は観阿弥、世阿弥親子の合作といわれる。観阿弥によって作られた曲に世阿弥が手を入れたというが、たしかに前半部分には世阿弥らしい優雅ささが伺えるのに対して、後半部分は荒々しさが溢れているところが、観阿弥らしさを感じさせる。
エミリー・ディキンソンの詩から「アラバスタ―(Safe in their alabaster chambers)」(壺齋散人訳)
アラバスターの部屋でやすらかに
朝にも邪魔されず 昼にも邪魔されず
復活を待つ柔和な人々が眠っている
サテンの垂木 石の屋根の下で
陸游の五言絶句「楚城」(壺齋散人注)
江上荒城猿鳥悲 江上の荒城 猿鳥悲し
隔江便是屈原祠 江を隔つれば 便ち是れ屈原の祠
一千五百年間事 一千五百年間の事
只有灘聲似舊時 只だ灘聲の舊時に似たる有り
一枚の写真がまた大きな騒ぎを巻き起こしそうだ。この写真(AFPから)は、宮城県松島市にある航空自衛隊を視察中の安倍首相が、ブルー・インパルスの訓練機に試乗しているところを映したものだ。自衛隊の制服らしい物を着て、右手の親指を突き立て、得意そうな表情をしている。
船橋の長津川調整池は洪水による水害防止のために作られた。船橋市の北部を流れる長津川が山林地帯から平地に出てくる丁度分岐点に作られている。川に沿って大きな溜池が掘られ、その周囲に散策路のようなものが設けられている。溜池は普段は乾燥しているが、大雨が降って川が溢れると、一転してちょっとした湖になる。
「生れてはみたけれど」は、小津安二郎のサイレント映画の中でも、もっともすぐれた作品だということになっている。サイレント映画というのは、複雑な物語性や微妙な感情表現には向いていない反面、映像の抒情性や様式的な身体表現と言った点に優れている。つまり、トーキーではうまく表現できないようなことを、自然に表現できる利点がある。そうした利点を生かしたことで、この作品は独特の輝きを持つに至ったのだろうと思われるのだ。
「黙示録の四騎士」は、「ヨハネの黙示録」第六の前段の部分で、子羊が七つの封印のうち最初の四つの封印を解いた時に出現したということになっている。それらは、戦い、殺戮、審判、死の象徴だとされ、世界の終末に出現する光景をそれぞれシンボライズしたものだと信じられてきた。テクストからそれぞれの部分を書きだすと、次のようである。
今年(2013年)は、日本が世界に誇る映画監督の一人小津安二郎の生誕110周年ということで、松竹を中心に様々なイベントが計画されているという。中でもその目玉は、小津の代表作をデジタルで再生し、それを劇場上演することだ。いまのところ、今週から始まるカンヌ映画祭に、小津の最後の作品「秋刀魚の味」が特別上演されるほか、ヴェニス映画祭では「彼岸花」の上映が予定されているという。また国内では、11月以降に東京神保町シアターで小津作品の集中上映が予定されているそうだ。
エミリー・ディキンソンの詩から「宝石(I held a jewel in my fingers)」(壺齋散人訳)
宝石を握りしめながら
わたしは眠ったの
その日は暖かく 風も穏やかだった
わたしはいった 離さないわと
プーチンの側近中の側近として知られるヴラヂスラフ・スルコフ(Владислав Сурков)が副首相の職を解かれ、政治の表舞台から去ることとなった。スルコフと言えば、ナーシなど社会運動体の組織者として行動的な面を持つとともに、国家民主主義を唱えるなどイデオローグとしての側面も持つ。物理的にも理論的にもプーチンを支える懐刀だったわけだ。その男が何故権力の座から追われたか。
北京東部のビジネス地域に面白い形をしたビルが建ちあがってきたというので、中国のネット社会でちょっとした話題になっているそうだ。というのも、その形が何かを連想させるからだという。その何か、とは何か?さよう、御察しのとおりである。人間の男根のことなのである。
上の図は、COPD(慢性閉塞性肺疾患)という病気を治すための手術を受けた場合に、患者が医療機関から請求される医療費の額の、医療機関ごとの分布を表したものである。連邦メディケア&メディケイド・センターの公表データをもとに、ハフィントン・ポストのスタッフが作成した。
筆者の家の近くに長津川調整池公園と言うのがあって、その散策路沿いにソメイヨシノが植えられている。それが春ごとに見事な花を咲かせるので、付近の人にとっては格好の花見どころとなっている。
「父ありき」は親子関係のひとつのあり方を描いている点で「一人息子」とよく似ている。「一人息子」では母子関係であったものが、この映画では父子関係になっている。どちらも親一人子一人の関係だ。そしてどちらもたった一人の息子のために、自分のすべてを犠牲にして、それを怪しまない親の生き方を描いている。その挙句、母親は息子が期待したほど出世できなかったことに、裏切られたような無念さを感じる一方、息子が気持ちのやさしい人間に育ったことに深い満足も感じる。父親の方は、息子が期待通りに育ったことに満足する一方、その気持ちが優柔なことを叱責するのである。こうしてみれば、この二つの作品は、面白い対照をなしているのがわかる。
この図は、民俗学者の間で「南方曼荼羅」と呼ばれているものである。この奇妙な図を南方熊楠は、土宜法龍宛明治36年7月18日付書簡の中で描いて見せた。この書簡の中で熊楠は、例の通り春画やらセックスやらとりとめのない話題に寄り道をした挙句に突然仏教の話に入るのであるが、この図はその仏教的世界観(熊楠流の真言蜜教的な世界観)を開陳したものとして提示されたのであった。
「ヨハネの黙示録」連作のスタートは、黙示録の最初のエピソード「天井におられるキリストの姿」である。「序文と挨拶」の直後に置かれ、黙示録の始まりを物語る部分である。その部分のテクストは以下のようになっている。
銃規制を巡って揺れているアメリカで今度は、5歳の男児が2歳の妹を射殺するという事件が起こった。地元の検視当局は「常軌を逸した事故の一つにすぎない」といっているそうだが、問題なのは、この事故で使われていた銃が、男児の所有する銃であったことだ。アメリカではいま、児童向けの小型ライフル銃が公然と売られており、ウオルマートへ行けば、一丁110-140ドルで買うことが出来る。今回男児が使ったクリケットという児童向けの銃は、2008年の一年間に6万丁販売したということだ。まさに銃社会アメリカだ。
エミリー・ディキンソンの詩から「嵐の夜よ!(Wild nights! Wild nights!)」(壺齋散人訳)
嵐の夜! 嵐の夜よ!
あなたと一緒なら
嵐の夜もすてきな
ひと時にかわる
陸游の七言古詩「浣花の女」(壺齋散人注)
江頭女兒雙髻丫 江頭の女兒は雙髻丫(きつあ)
常隨阿母供桑麻 常に阿母に隨って桑麻に供す
當戶夜織聲咿啞 戶に當って夜織れば 聲咿啞たり
地爐豆秸煎土茶 地爐の豆秸 土茶を煎る
長成嫁與東西家 長成すれば嫁與す 東西の家
柴門相對不上車 柴門相ひ對して 車に上らず
青裙竹笥何所嗟 青裙 竹笥 何の嗟する所ぞ
插髻燁燁牽牛花 髻に插すは 燁燁たる牽牛花
城中妖姝臉如霞 城中の妖姝 臉(かほ)霞の如し
爭嫁官人慕高華 爭ひて官人に嫁し 高華を慕ふ
青驪一出天之涯 青驪 一たび天之涯を出づれば
年年傷春抱琵琶 年年 春を傷みて 琵琶を抱く
日比谷通り沿いに威容を誇る増上寺山門は三門ともいい、また三解脱門ともいう。三解脱とは、貪、瞋、痴の三煩悩を解脱するという意味だそうである。
日本人が陸上短距離走に弱いのは体質的な宿命だと嘗てはいわれていたものだ。長い間陸上短距離走は、黒人選手たちの独壇場であり、白人でさえもなかなか及ばなかった。まして日本人を含めた所謂黄色人種にとっては、体力の壁が厚すぎるといわれたものだ。
小津安二郎の映画「戸田家の兄妹」は、ある家族が一枚の記念写真を撮るシーンから始まる。家族の母親の還暦祝いの記念写真だ。そのお祝いのために家族全員が集まって、家族の絆を確かめ合い、其れを一枚の記念写真に残す。ところが、その写真は家族の絆の最後の証しであるとともに、家族の崩壊を暗示するものともなる。この映画はそんな家族の崩壊するさまを残酷に描き出したものなのだ。
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