色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年:村上春樹を読む

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この題名に初めて接した時、筆者はまず意味がわからなかった。「つくる」を文字通り「作る」とよんで、多崎がなにを「作る」のか、訳が呑み込めなかったからだ。その多崎が色彩を持たないというのも、訳が分からなかった。わかったのは巡礼の年ということだが、それが何故「多崎」の作るものと結びつくのか、それもわからなかった。つまりわからないことだらけの題名に映ったわけである。

しかし「謎」はすぐに氷解した。「つくる」は動詞の「作る」ではなく名詞の「つくる」であり、しかもそれは多崎という人物の名前だということが分かったからだ。つまりこの小説は、「多崎つくる」と云う名前の男性を主人公にした物語なのだ、ということがわかったのである。

題名が奇妙な割には、内容は奇妙ではない。すこしおかしいだけである。しかしおかしさだけではなく、この物語にはまじめなところもある。

おかしさと云う点について述べると、この小説には村上春樹一流の諧謔趣味が溢れている。まず至る所に色彩の諧謔がある。小説に出てくる主要人物は、主人公の多崎つくるとその恋人の木元沙羅を除いては、名前に色彩を現す文字がついている。つまり皆色彩を持っているのである。

主人公が高校生時代に仲の良かった友達には、それぞれ赤青白黒といった色を現す文字が含まれていた。この仲良しの友達グループから主人公の多崎つくるひとりだけが追放されてしまうのだが、それは彼の名前に色彩がなかったからではないか、そんな風に読者に思わせるところがある。

多崎つくるが独りぼっちになった時に一人の学生と仲良くなったが、その学生にも灰色の色彩がついていた。そしてその学生が話してくれた昔話の中に出てくる人物の名前にも緑色の色彩がついていた。そんな具合に、この小説の中には、色彩が溢れているわけなのである。

この小説の中に溢れているのは色彩だけではない。音もまた溢れている。音だから、溢れているというのは、適切な云い方ではないかもしれない。音は「溢れる」ではなく、「みなぎる」のかもしれない。

最も音高くみなぎっているのは、リストのピアノ曲「巡礼の年」の一節「ル・マル・デュ・ペイ」である。ル・マル・デュ・ペイとはフランス語でホームシックという意味の言葉だが、昔のことが懐かしいとか、過去にこだわるとかいう意味もある。

「巡礼の年」も「ル・マル・デュ・ペイ」もこの小説のテーマと深いかかわりがある。その関わりの部分から先は、諧謔趣味が引っ込み、まじめなところが前面に出てくる。

主人公の多崎つくるは、今や36歳の中年男だが、まだ少年時代に蒙った心の傷から自由になれていない。そのために彼は、恋人との間に新しい未来をい切り開いていくことが出来ない。恋人はつくるに向かって、自分で未来を切り開くためには、過去と真剣に向き合わねばならないと説得する。つくるも、それもそうだと思って、一体過去に何が起こったのか、それを探しに出る決心をする。つまり、この小説は「自分探し」の旅を描いた作品なのだ。その旅はまた、巡礼の旅と言い換えられる。多崎つくるという名の一人の中年男が、自分の真実を求めて巡礼の旅をする。これがこの小説のメイン・プロットなのだ。

主人公が少年時代に蒙った心の傷とは、高校生時代に形成した五人の共同体から突然追放されたことがもとになっていた。五人とも名古屋の高校の同級生で、三人の男の子と二人の女の子から成り立っていた。何をするのも一緒と云う具合に親密な関係を築いていたのだったが、高校卒業後他の四人が名古屋に残ったのに、主人公のつくるだけが東京の大学に入った。卒業後も五人は親しくし、つくるもそんなつきあいを楽しみにしていたが、ある日突然、絶交を宣言される。理由も聞かされないで。

主人公のつくるは、自分が何故共同体から追放されたのか、その理由がわからないままに苦しみ続けた。その苦しみのおかげで、顔つきまでが変ってしまったほどだ。死を思うあまりに、ろくに食事もとらない日が続いたからだ。その苦しみからなんとか立ち直った時に、灰田という青年が彼の前に現れ、奇妙な運命を抱えた不思議な男の話を聞かせてくれたりしたが、その青年もある日突然、つくるの前から姿を消してしまう。つくるは、わけもわからないまま、人間関係の断絶を繰り返し体験させられるというわけなのだ。

さて、恋人から自分探しをするよう説得されたつくるは、昔の共同体のメンバーたちを訪ね、いったい自分がどのような理由でそこから追放されなければならなかったか、聞いてまわった。まず、二人の男の友人を名古屋に訪ねた。アカとアオと云う名の友人だ。その結果意外なことが分かった。女の子の一人、シロという子が、自分にレイプされたと他のメンバーに訴えたというのだ。無論つくるにはそんな覚えはない。また彼女が何故そんな根も歯もないことを言い出したのか、それもわからない。たぶん永久にわからないだろう。彼女は数年前に何者かによって殺されてしまったから。

残る一人の女の子クロは、今は結婚してフィンランドで暮らしているという。つくるは彼女のことも訪ねることにする。男の友達からは聞けないようなことを、もしかして聴けるかもしれないと、思ったからだ。恋人も言うように、世の中には女同士でしか話せないこともあるだろうからだ。もしかしたら、シロは「レイプ」にまつわるなんらかの話を、クロに漏らしているかもしれない。

結局クロから聞けたのも、男の友人の話と五十歩百歩だった。しかし、クロもまた、ほかの二人の男の子と同様、つくるがレイプなどしていないと確信していたことがわかった。当時のシロは人格崩壊の状態にあり、彼女のいうことをそのまま受けとるほかはなかったというのだ。

クロの話を聞いたつくるは、自分の全面的な無実を確信することができないのに思いあたった。というのも、つくるはシロとセックスする夢を限りなく見ていたからだ。もしかしたらその夢の中の出来事の一部は、実際に起きたことなのかもしれない。つくるの分身が夢の中から現実にさまよい出て行って、シロをレイプしたのかもしれない。そんな風に思われないでもないのだ。だがそれは気迷い事だ。現実の世の中にそんなことが起こるはずもない。そんなことを考える自分はどうかしているのだ。

ともかくこうして、自分探しの旅の結果、つくるには自分の過去を巡る謎のいくつかが明らかになった。その点で、この自分探しを兼ねた巡礼の旅には成果があったということになる。

しかし、つくるにはそれを素直に喜べないところがある。つくるがこの旅を決意したのは、自分自身の内的な意思がそうさせたということもあるが、恋人である木元沙羅の手前ということもあった。沙羅はつくるに向かって、過去の自分を探し出したうえで、心のつっかえがとれた時点で、改めて二人の未来について語り合いましょうといっていたのだった。

ところが、つっかえがひとつとれたと思ったら、別のつっかえが出てきた。沙羅には別に恋人がいるのではないかと云う疑念である。フィンランドに出発する直前、つくるは町の中で偶然、彼女が初老の紳士と仲良く手をつないで歩いているところを目撃してしまったのだった。その折の彼女は、実に楽しそうな表情をしていた。自分には一度も見せたこともないような、屈託のない表情だ。しかもその時の彼女はミント・グリーンのワンピースを着ていた。豊かな色彩感覚が伝わってくる。その時の彼女もまた、色彩を持っていたというわけである。この世の中で色彩を持たないのは多崎つくるだけだといわんばかりに。

こんなわけで、主人公のつくるは、何のために自分探しの巡礼を行わなければならなかったのか、ますます訳が分からなくなってしまう。自分なんて、人の目から見えない以上に、自分の目から見えない部分を抱えている。そんな不条理な部分を抱え込んだまま、この小説は突然終わってしまうのである。


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