道化としての佐藤栄作

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岸信介が昭和史を跋扈した妖怪だとしたら、その弟の佐藤栄作は何といったらよいのか。そんなことを考えていたら、面白い言い方に出会った。佐藤栄作は道化だというのである。

佐藤栄作を道化だと言ったのは、先日亡くなった劇作家井上ひさしである。井上ひさしは、これもまた先日亡くなった民俗学者山口昌男との対話(近代日本の道化群像)の中で、道化としての乃木将軍をあれこれと論じていたのであったが、突然佐藤栄作も道化ではないかと言い出したのだった。

どうしてかというと、佐藤栄作には世間とずれているところがある。たとえば世間で長髪が流行っていると自分も長髪にしたがる。するとヒッピーの連中は、こんな親爺と一緒にされるのは嫌だからと言って、坊主頭にしてしまう。このずれ方は、道化特有のものだというわけなのである。

すると山口昌男も同調して、佐藤栄作は道化だという。この男は本当は三枚目を演じた方が似合っているのに二枚目を演じたがる。時代が官僚的な秀才の筋書きから外れているときに、秀才の役割を演じたがる。しかしどこか憎めないところがあるから、兄の岸信介と違って大衆の怒りを買うことがない。そこがこの男の道化たる所以だというのである。

しかし乃木や佐藤に限らず、日本の政治家というのは、歴史的に見て道化的な人物が多かったというのが、二人の共通した見方だった。日本の歴史と云うのは天皇を中心に動いてきたわけだが、天皇と云う中心があれば、必ずその対極に、周縁としての道化が必要になるというのだ。

この見方に立てば、スサノオはアマテラスオオミカミを引き立てるために、ヤマトタケルは景行天皇を引き立てるために、義経は頼朝を引き立てるために、そしてその義経をひきたてるためには弁慶が、それぞれ論理必然的に必要になるのだということになる。近代史においては西郷が明治天皇のために道化の役割を演じた。そして乃木もまた明治天皇を中心とした国造りを強固にするためのスケープゴートとして道化の役を仰せつかったというのである。

道化はスケープゴートとしての役割を演じるのみならず、誰が見ても滑稽なことを演じることもできなければならない。しかもそれには演技性を感じさせないことが肝要である。この点、乃木の道化ぶりは大衆の拍手喝采に応えるだけの迫力を備えていた。

乃木は西南戦争の時に軍旗をとられたことがある。そこで責任を感じた乃木は、死に場所を求め、人夫を雇ってモッコに乗り戦場を駆け回った。人夫は命が欲しいものだから、モッコを投げ出して逃げようとする。すると乃木は黄金をばらまいて人夫を引きもどす。人夫は再び乃木を担いで戦場を駆け回るが、やはり命が惜しいので再び乃木を放り出して逃げる。こんなことを繰り返しているうちに、乃木は死に場所を探しそこなったというエピソードがある。これなどは、本物の道化でなければ決してできる技ではないというのである。

佐藤にも面白おかしいエピソードがある。首相を退任するときの記者会見で、テレビはこっち、新聞はあっち、といったという有名な話があるが、これを佐藤は無邪気な気持ちから、心を込めて言ったらしいのである。というのも、佐藤は自分が郵政大臣時代に民法のテレビ局を認可した経緯があり、民放と云う者は自分が作ってやったんだから、自分の子どものようなものだと思い込んでいたらしいのである。そこで可愛い子どものテレビはこっち、憎らしいことばかり書く新聞はあっち、という発言につながったというのである。

兄である岸信介なら、口が曲がってもこんなことはいわない。岸の方にはリアリストとしての自覚があったからだろう。その点佐藤の方は芝居がかっている。そこを捉えて、山口は佐藤を評して、「楼門の上で見栄を切る石川五右衛門の役割を演じてる」といっている。

実に面白い指摘だ。


関連サイト:非政治的人間の政治的省察 





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