人柱の話:南方熊楠の世界

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「建築土工等を固めるため人柱を立てることは今もある蕃族に行われ、その伝説や古跡は文明諸国に少なからぬ」南方熊楠はこう切り出して、世界中から人柱の例をあげていく。インドなどではいまでも人柱が行われおり、またヨーロッパの文明国でも15世紀ころまでは行われていた。日本も例外ではなく、徳川時代まで行われていたことは間違いない。先日も皇居の二重橋の櫓下から白骨が出てきたが、これも人柱の跡に違いない。こういって、南方の例証は留まるところがない。南方の学問の特徴は、とにかく世界中に類似の現象を求めて列挙し、それらを相互に比較することにある。

人柱がつい最近まで行われていたらしいことは推測できるが、それが確証できないのは、記録が残ってないからだと熊楠は考える。記録が残らないのはそれなりの理由があるので、つまり忌憚る気持ちが働いていることによるのだろう。ところが世人の中には記録がないことを理由に、日本には人柱のような野蛮な風習はなかったなどというものがある。そういう人を熊楠は次のようにいって批判する。

「本邦の学者、宮城の櫓下の白骨一件などにあうとすぐ書籍を調べて書籍に見えぬから人柱など全くなかったなどいうが、これは日記に見えぬから我が子ではないと云うに近い」

つまり、記録に無いことはそもそもなかったのだと強弁する連中について、熊楠は、不都合なことや当たり前のことはわざわざ記録されることが少ない、そういう事柄については、直接の記録に限らず、あらゆる資料から事実を再構成していく必要があるといっているわけである。

この熊楠の批判は現今の政治家にも当てはまるものがある。現今の政治家にも、従軍慰安婦に対する強制を裏書きするような資料がないことを理由に、従軍慰安婦の問題そのものを否定しようとする連中がいるが、そういう連中と熊楠時代の考古学者とはよく似ているのであろう。

会津城を鶴ヶ城といい、猪苗代城を亀城というが、これは人柱にされた女の名からきているのだろうと熊楠はいう。また、ざしきわらしというものも人柱にされた児童の亡霊をさしていうのではないかと推測している。

日本の人柱がどのようにしてなされたか、熊楠は詳細に言及していないが、欧州の方の人柱のやり方が日本よりも残酷だったといっている。その例として熊楠は、幼気な小児におもちゃを持たせ、気を取られている間に円天井をかぶせ、壁に突き込んでしまった話やら、女の体のうち乳の部分を残して生き埋めにし、12か月の間その乳を子に飲ませ続けた例などを紹介している。

欧州ではまた刑罰として人柱にすることもあった。そういう場合にはひときわ残酷な様相を呈した。ただ単に生き埋めにするのではなく、最大限の苦痛を加えてやろうという意図が働くからである。

人柱の話をしているうちに熊楠の想像力は羽根を伸ばし続け、いつしか墓の話に変る。墓穴のことをやぐらというが、それは日本紀がいうように矢を納める庫のことではなく、谷倉の義であろうと推測している。実朝の墓には絵が描いてあるところから絵かきやぐらといっている、いずれにせよ、このやぐらは櫓とは別物だ、などと脱線ぶりはきりがない。


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