お茶漬けの味:小津安二郎の世界

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「お茶漬けの味」は、夫婦関係の危機と和解を描いた映画である。家族関係を描き続けた小津安二郎にとっても、夫婦関係に焦点を当てた映画はこれが初めてだ。

それまでの小津は、主に親子の関係や、その延長としての家族の解体といったものを描いてきた。「父ありき」、「晩春」、「麦秋」は父と息子乃至娘の親子関係を描いたものだったし、「戸田家の兄妹」、「風の中の牝鶏」は、家族の解体の危機を描いたものだった。それらに対して、この映画では、倦怠期にある夫婦の危機が描かれている。その点で、小津得意のホームドラマの範疇に属するものとは言えるが、夫婦関係に焦点があてられることで、普通のホームドラマとは多少趣が違っている。というのも、夫婦関係というのは、血の繋がっていない男と女の関係だからである。それ故、夫婦関係の危機とは、そこに子どもが介在しない限り、男女関係の危機という形をとる。この映画が、ホームドラマでありながら、一種の恋愛映画になりえているのは。男女の葛藤を描いているからである。

佐分利信と小暮美千代が演じる中年夫婦は、何不自由ない豊かな生活をしているが、倦怠期に入っているらしく、寝室も別である。要するに夫婦らしい親密さを失ってしまったのだが、とりわけ妻の方が深刻な状態にある。彼女は、いったん夫が疎ましくなると、夫の何もかもがいやになり、事あるたびに夫を罵るのだ。そんな妻に対して夫の方は下手に出て、なるべく事を荒立てないようにする。そのやり取りを見ていると、この夫は完全に妻の尻に敷かれていると思えるほどだ。

夫婦の対立が激化して、ついに妻が家出もどきのことをする。その家出の最中に夫は南米のウルグアイに転勤を命じられる。夫は妻に至急家に帰るようにと電報を打つが妻はそれを無視する。こうして互いに分かれ分かれのままで、夫は飛行機でウルグアイに旅立ち、妻はそれを見送ることをしなかった。そのことを周りの人々は大いに責めるが、妻の方は意地を張ったままである。

しかしそこへ、思いがけずに夫が現れる。飛行機が故障して、舞い戻ってきたというのだ。その夫の姿を前に、妻は俄に夫への愛情が戻ってくるのを感じる。こうして二人は和解する。真夜中に二人が一緒に食べるお茶漬けは、その和解の象徴なのだ。

こういう風に、話としては、別にどうと言うこともない話だ。倦怠期の夫婦にはよくある話といえよう。そのよくある平凡な話を、小津はけっこうドラマチックに描き出している。

小津がこの映画を作ったのは1952年のことで、日本の社会にもそろそろゆとりが出てきた頃だった。東京の町にはもう戦争の影は見られない。それでも、佐分利信は戦争に従軍したという設定になっているし、戦友だったという笠智衆と偶然再会し、昔をなつかしみながらも「戦争はもうまっぴらだ」といわせている。

実は、この映画のシナリオはもともと戦争中の昭和39年に書かれたものだ。それを小津は10年以上経ってから復活させたわけなのである。当初のシナリオでは、倦怠期で仲が悪くなっている夫婦が、夫の招集をきっかけに和解するという筋書きだった。それが検閲当局から軟弱だと非難されボツになったのであるが、そのときの検閲のいいがかりの対象のひとつに、お茶漬けを食べるシーンがあったという。出征兵士は赤飯を炊いて祝うのが当たり前なのに、お茶漬けですますとは何事だ、というわけである。

倦怠期の夫婦のすれ違いを描いた作品としては、雰囲気はそう重苦しくない。それは佐分利信演じる亭主の方が、鷹揚で懐が深い性格に描かれていることによるが、この夫婦をとりまく人物群像の明るい雰囲気にも由来するといえる。

もっとも大きなポイントになっているのは、津島恵子演じる親戚の娘であり、また鶴田浩二演じる青年である。この二人は、最後は結ばれることが仄めかされているが、その前に、津島恵子が、半ば強要された見合いを蹴飛ばすシーンがある。その見合いは歌舞伎座の中で行われる。津島恵子は相手の男を座席に残したまま、一人その場を逃れて、佐分利信に救いを求めに来るのだ。佐分利信は、いったんは娘を歌舞伎座まで送り届けるが、娘は再び脱出して見合いをだいなしにする。脱出した娘は再び佐分利信を頼って、鶴田浩二も含めて一緒に競輪の見物やパチンコをしたりするのである。

そのことを後で知った小暮美千代が、亭主を非難する。すると亭主は、表向きは娘を叱りながらも、陰では娘の行動に同情する。それがまた小暮美千代には気に食わない。このことが基で、彼女はついに家出と言う強硬手段に出るのである。

津島恵子のほかに、淡島千景もなかなか色気を添えていた。彼女は小暮美千代の悪友であり、自身もまた亭主との間の関係が冷え込んでいる。その亭主は野球場で若い女とデートしているところを妻に見られたり、小遣を妻にせびるような情けない男として描かれている。そんな亭主でも、淡島千景は許してやるほどの心の広さをもっているのである。

その淡島千景と小暮美千代とが語らい合って修善寺に遊ぶシーンが出てくる。津島恵子ともうひとりの女性も加わり、温泉宿でくつろぎながら、亭主の悪口を言って喜ぶ。佐分利信が余りにも鷹揚としているので、妻の小暮美千代は「鈍感さん」と呼ぶのだ。

この修善寺の宿と言うのが、画面に出てくる変った形の塔からして、どうも新井旅館のようである。この旅館は修善寺でも老舗に属し、今では国の文化財にも指定されている。古い木造建築が水の上に浮かんでいるように立っているのが売り物で、彼女たちも池に面した部屋から水中に泳いでいる鯉に餌を投げたりする。

最期に出てくるお茶漬けの場面は何ともユーモラスだ。小暮美千代は、家事は女中任せで、自分ではしたことがない。その彼女が、深夜だから女中を起こすのも気の毒だと言って、台所を家探しして、お茶漬けの材料を集める。実は彼女は、お茶漬けなどは下品な食べ物だと言って、日頃馬鹿にしていたのである。それを亭主が食べたいと言うので、二人の和解のしるしとして、自分からも積極的に食べることとしたのだった。

やっと材料がそろったところで、二人は御膳に向かいあって座り、お茶づけをすすりあう。小暮美千代の食べ方はいかにも女性らしく上品だ。それに対して佐分利信のほうはずるずると下品な音を立てて、さもうまそうに食べて見せる。それを見て小暮美千代は胸がいっぱいになるほど嬉しく感じるのだ。

ともにお茶漬けをすすることが夫婦の和解の象徴だとは、いかにも日本的な風景だ。このシーンのお茶漬けに限らず、小津安二郎は食事の場面を非常に重視していた。家族が一緒に食事をするというのは、家族関係の原点のようなものだ、そう考えていたからだろう。


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