知覧特攻平和会館:南九州の旅その三

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4時近く、知覧特攻平和会館というところに到着す。知覧は陸軍の特攻基地があったところで、ここを拠点に訓練された若者が、沖縄戦に特攻攻撃を命じられて死んだ。この施設は、国のために死んでいった若者たち1300余柱の写真を掲示するとともに、彼らの残した遺品や彼らが搭乗した戦闘機などを展示したものだ。戦闘機は一式戦闘機で俗に隼と呼ばれたものだ。あの潔い軍歌で有名になった隼だ。いまでも右翼の街宣車が好んで流している軍歌だ。

それぞれの写真に写った若者たちの表情に未練がましさはない。みな潔い表情をしている。彼らの殆どは20歳前後であり、もっとも年長でも24歳だ。なかには17歳というのもいる。みな志願してきた若者たちで、死はもとより承知だったろう。

写真のほかに、出征に当たって贈られた寄せ書きや、若者自身の手紙などもあった。寄せ書きには決まって天皇陛下万歳と書かれている。彼らは日本という国のためというより、天皇のために死んでいくことを期待されていたわけだ。しかし、若者自身が身を挺して守ろうとしたのは、天皇個人ではなく、自分の家族や仲間たちの命だったということは、若者の書いた手紙の内容からうかがい知ることができる。或る手紙には、「お母さん、一足お先に」と書かれていた。

隼は、館内に一機あるほか、館外にも一機展示されていた。その傍らに一人の婦人の銅像が立っている。この銅像は、特攻戦士の母と呼ばれたある婦人のものなのだそうだ。その婦人は特攻基地近くで食堂を営み、休憩時間中にやって来る若い兵士を相手に、いろいろ相談にのってやったそうだ。兵士の中にはまだ10代の若者もいて、彼らはこの婦人を母親がわりにして甘えていたのだそうである。

この婦人については、有名になった逸話がある。特攻に旅立っていったある若者が、ある日婦人を訪れてきて、いつかまた帰ってきますといったことがあった。婦人は、特攻が生きては帰れぬことをよくわかっていたので、若者の言っていることがはじめは理解できなかったが、死んだ後に蛍となって生き返り、再び婦人に会いに来たいと、若者はいっているのだと推し量り、涙を抑えることが出来なかった。この逸話をもとにして、高倉健さんが主演した映画「ほたる」がつくられたのだという。

実は、この施設が作られるにあたっても、この婦人は大いに尽力したのだという。様々な点で、特攻の母と呼ばれるに相応しい人だったわけである。

見学を終えてバスに戻る途中外国人の団体とすれ違った。すれちがいざま、フランス語や英語が聞えてきた。どうやら複数の国籍からなる混成ツアーのようである。彼らがどのような意図でこの施設を見る気になったか、また見た後でどんな印象を抱いたか。できれば聞いてみたい気がした。

車内に戻ると、それぞれの席に知覧茶の袋が置かれていた。バス会社からの、日程が遅れたことへのお詫びのしるしだという。知覧はお茶の産地としても知られており、筆者も日頃から愛飲している一人で、先ほど館内の売店で結構高価なやつを買い求めたばかりだ。

この後バスは、池田湖に赴き、更に西大山というJRの鉄道駅に立ち寄った。池田湖は火山の噴火口に水がたまってできたものだといい、したがって非常に深い。最深部で233メートルのあるという。そんなことからか、ネッシーとよく似た怪獣が生息しているという伝説も生まれた。その怪獣をここでは、イッシーというのだそうだ。

怪獣ならぬ大鰻なら、湖畔の土産物屋の中にいた。こちらは、太さが50センチもあるという巨大な生き物で、鰻というより鯰を思わせた。鯰同様、食ってもうまくはないそうだ。


関連サイト:あひるの絵本 





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