お早よう:小津安二郎のホーム・コメディ

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「お早よう」は小津安二郎が久方ぶりに作ったホーム・コメディだ。小津はもともとコメディが得意で、1930年代前半には「生れてはみたけれど」や「東京の合唱」など、多くの喜劇作品を手がけたが、戦時中から戦後にかけては、シリアスなテーマの映画ばかり作った。それがこの作品で、再びコメディ・タッチを取り入れたのだったが、それは馬鹿笑いを誘うようなドギツイものではない。そこはかとなく笑いを誘うといった、やわらかいタッチのコメディだ。

舞台は、恐らく荒川の土手と思われるところ。その付近に数世帯からなる小団地のようなものがある。そこに住んでいる家族の日常生活がそのまま映画のテーマである。主人公と呼べるのは、中学生の男の子と、小学生の男の子の兄弟。この兄弟が、親にテレビを買ってくれとねだって、買ってもらえないことですねて、何かと反抗する。それを父親(笠智衆)が厳しく叱る。しかしその叱り方が、あまり能のない叱り方だ。買ってやれない理由をわかりやすく説明するのではなく、ただ一方的に「つまらぬことを言うな、黙っていろ」と叱り飛ばすのである。そこで息子も言い返す。「大人だってつまらないことばかりいっているじゃないか、お早よう、こんにちは、良いお天気で、さようなら」 つまり、この映画の題名は、親に叱られた子どもの口答えに由来しているというわけなのである。

こんなわけで、黙っていろと言われた子どもたちは、それ以来一切口を利かないことにする。そのことから様々な珍事態が発生する。そこから何とも言えない、ほんわかとしたユーモアが生まれてくるという次第なのである。

子どもには子どもたちだけの世界がある。彼らは自分たちの間で様々な決まり事を作っては、自分たちだけのユニークな世界を作り上げている。この映画に出てくる子どもたちは、互いにおならの音をたてることで、挨拶のしるしとしている。彼らはいつでも必要な時におならの音が出せるように、日頃から訓練に余念がない。軽石の粉を食べると、おならが出やすいと聞いた彼らは、せっせと軽石をナイフで削っては、その粉を飲む。ところが子供の中には、そのためにお腹を壊して、おならの代わりにウンコをひり出す者もいる。その子はウンコをひり出すたびに母親(杉村春子)に叱られるのである。

ところが、おならは子どもたちだけのものではない。大人もまた、ひる(正しい日本語では屁は「ひる」という。そこから「へっぴりごし」という言葉が生まれた)。

子どものおならは無邪気なものだが、大人のおならには記号性がある。そこで、亭主がおならの音をたてると、女房が近寄ってきて、「なにか用ですか?」と問う。問われた亭主のほうでは「いいや、なんでもない」と答える。そこら辺のやりとりが、なんともいえない笑いを引き起こす。

もう一つのテーマは、団地に住んでいる大人たち。とりわけ奥さん同志の関係である。奥さん同志が、ほんのつまらないことから、いがみあったり、あるいは仲直りしたりする。そこらへんによく見られる人間模様だ。ただ、現代と違うのは、この当時の人間関係が濃密なことだ。お隣同士、いいにつけ悪いにつけ、強く結ばれ合っている。そこに住んでいる人は、中々こうした結びつきから逃れることが出来ない。逃れようとして自分の生活の中に閉じこもると、村八分になる。この時代の人々はまだ、村八分になることを恐れていたのである。恐れていないにしても、そこに住んでいることが息苦しくなる。この映画でも、そうした人間が出てくる。彼らは団地の人間関係に打ち解け得ず、ついにそこから脱出するはめになるのである。

女たちがそれなりに元気なのに対して、男たちはあまり元気がない。東野栄次郎演じる男は定年で会社を首になったあと、どうやって暮らしていけばよいかと、愚痴ばかりいっているし、笠智衆演じる父親だって、定年までそんなに長くはない。まだ小さな子どもをかかえながら憂鬱の種は尽きないというわけである。子どもたちに英語を教えているという設定の佐田啓二も目下失業中で、翻訳のアルバイトでなんとかその日をしのいでいる。少年たちの叔母である久我美子が翻訳の仕事を持ち込んでくれるのだ。

この映画が作られたのは1959年だから、日本は高度経済成長に入っていた時期であり、世の中の景気はそんなには悪くなかったはずだ。東京も、前年(1958年)にアジア大会を催したりして、勢いが加速していた時期である。そんな時期なのに、小津はこの映画の中で失業や定年といったことにこだわっている。小津のそうした傾向は戦前から一貫したものであって、小津にとっては、社会状況と言えば不景気という具合に、ビルトインされていたかの如くである。

また、子どもたちが土手を歩きながら「有楽町であいましょう」の歌詞を歌う場面が出てくる。この歌がヒットしたのは1957年のことだ。それから二年後にいたる頃まで広く歌われていたことが伺われる。なにしろ大変なヒットだったというから、歌詞の内容にかかわらず子どもでも歌ったということなのだろう。

さて、映画の結末は、父親(笠智衆)にテレビを買ってもらった子どもたちが、喜びの余りに言葉を話し始めるというシーンだ。父親は隣人が電機販売会社に再就職できた祝いに、テレビを買ってやることにしたのだった。この家ではテレビのほかにも、洗濯機や冷蔵庫といったものもまだなかったのだが、テレビを優先させたのは、無論子どもたちへの配慮があったからだろう。こんな訳でこの映画は、最初から最後まで子どもを中心にして展開していく。

いよいよのラストシーンでは、またもや鉄道の駅が出てくる。荒川の土手近くの駅と思われるから、恐らく東武線か何かの駅だろう。その駅のホームで、佐田啓二と久我美子がバッタリと出会う。そこで二人は会話を始めるのだが、それが、何の変哲もない挨拶言葉の応酬なのだ。

佐田啓二は姉(沢村貞子)から、あんただってあの子たちのいうようなつまらないことばかり言っていないで、時には肝心なことを言いなさいと、言われたことがあるのだった。姉は弟に向かって、好きな人(久我美子)に自分の気持ちを明瞭に伝えなさいといったつもりなのだった。ところが、折角のチャンスがやってきたというのに、佐田啓二はつまらない挨拶言葉しか言えない。久我美子の方もそれに応えてつまらない挨拶しか返せない。しかしそれでもいいではないか。お互いが幸せな気持ちでいられれば。

どうもこの映画は、そのように言っているようにうけとれる。


関連サイト:小津安二郎の世界 







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