マヤコフスキーについて

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今年の7月7日は、ヴラヂーミル・マヤコフスキー(Влади́мир Влади́мирович Маяко́вский)の生誕120周年にあたるというので、ロシアを始め方々のメディアが彼の業績の意義について回想している。マヤコフスキーといえば、ロシア革命と強く結びつき、ロシア革命を鼓舞し続けた詩人という評価が先に立ったため、ソ連の社会主義が歴史的な意義を剥奪された今日にあっては、マヤコフスキーの意義も軽視されがちである。

マヤコフスキーは、たしかにマルクス主義者として出発した。彼がマルクスの著作を始めて読んだのは実に13歳の時である。以来彼は、革命を夢見てボリシェヴィキのパンフレットを配るようになり、そうした政治活動がもとで、10代にして三度も投獄されている。

彼を芸術家に導いたのは、未来派の詩人ダヴィド・ブルリュク(Давид Давидович Бурлюк)だった。ブルリュク自身はそんなに豊かでもなかったが、マヤコフスキーに生活の資金を与えてやる一方、詩の指導をしてくれた。そんなことから、マヤコフスキーは未来派の詩人として出発したのだった。

レーニンによるロシア革命が始まると、マヤコフスキーはそれを熱狂的に歓迎した。彼は左翼芸術戦線なるものを立ち上げ、ロシア革命を側面から鼓舞した。しかし、1924年にレーニンが死に、スターリンが権力を握るようになると、マヤコフスキーは次第に息苦しさを感じるようになる。彼は結局1930年に36歳の若さでピストル自殺をするのだが、それについては、世の中に絶望したからだとか、自分自身に絶望したからだという見方がある一方、スターリンの走狗によって暗殺されたといううがった見方もあって、死因は一義的には明らかにされていない。

1925年に、親友のセルゲイ・エセーニン(Сергей Алекса́ндрович Есе́нин)が手首を切って自殺した時、マヤコフスキーは強いショックを受けた。その時のショックが尾を曳いて、マヤコフスキーも自殺を願うようになったとする見方もある。エセーニンは切った手首から流れ出す血で、最期の詩をかいたのだが、それは、「死ぬことは陳腐だ、生きることはもっと陳腐だ」というものだった。それに対してマヤコフスキーは、「死ぬことは難しくはない、生きることの方がずっと難しい」と応えたのだった。

筆者は、マヤコフスキーの詩を本格的に読んだことはない。断片を読んだだけだが、それでもどこか引っかかるものを感じるのは、彼の風貌について記しているイリア・エレンブルグ(Илья Григорьевич Эренбург)の文章のせいだろう。

エレンブルグは晩年の回想記「我が回想」の中で、様々な同時代人たちとの交流を回想しているが、その中にマヤコフスキーとの出会いも記されている。その中でエレンブルグは、マヤコフスキーがソ連社会主義の同伴者のように見なされることに強く反発し、彼の芸術家としてのデリカシーを強調するのであるが、自分たちの間には「真の出会いは一度もなかった」ともいっている。

では、どんな出会いがあったのか。エレンブルグは、初めて出会った時のマヤコフスキーの印象を次のように言っている。「大柄で、顎が張っていて、眼は時に悲しく時にきびしく、声は大きく、お祈りの文句を称えながら逆立ちして歩く中世の曲芸師と敵意に燃えた聖像破壊者が、結びついているという印象である」(小笠原豊樹訳)

こういってエレンブルグは、「むつかしいことだ、人間について語ることは」と嘆息するのであるが、その嘆息には、自分には理解は及ばないが、それでも引きつけられずにはいられない魅力を感じると言った、両義的な感情が込められているようなのである。(写真はロドチェンコが撮影)






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