ひとの痛みを想像できない:広島の死体遺棄事件

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広島県の山中で16歳の少女の遺体が遺棄された事件。同じ16歳の少女が自首して、警察の捜査の結果、この少女を含めて6人の人たちが少女に暴力を加えて殺害し、山中に遺棄したということがわかってきた。そして、その少女の仲間のうち三人の少女たち(いずれも16歳)が、事件への関与を認めて出頭してきた。ところがこの少女たちは、ひとを殺害して遺棄したことについては反省の意を示さず、もっぱら自分たちが今後どうなるのか、そんなことばかり気にしていると報道された。これを聞いて筆者は思わず慄然とした次第だ。

事件の詳細が分かっていない今の時点で、なにやかやとコメントするのは慎むべきかもしれない。だが、それにしても、この少女たちの行動にはやりきれないものを感じないわけにはいなかい。自分たちが関わった殺人死体遺棄事件について、彼女たちは殺された少女の気持ちを考えたことがないのだろうか。もしそうだとしたら、これほど恐ろしいことはない。

もしも彼女たちが、ひとの痛みを感じるだけの想像力を持っていたら、少なくとも自分たちのやったことについて深く反省し、多少は自分自身を責めるのが自然だ。それができないということは、彼女たちにひとの痛みを思いやる想像力が欠けているということだ。

何故そうなのか。彼女たち自身に深い問題があるのは、容易に想像できることだが、すべてを彼女たちのせいにするのも大人げないような気がする。彼女たちはたしかに、ひとの痛みを思いやる想像力に欠けていたが、それは、いまの社会にも問題がある徴なのではないか。

小泉政権以来、市場原理主義的な考え方が世の中に蔓延するようになった。市場原理主義のもとでは、強いものが弱い者を食い物にしてでも、金を儲けることが美徳だとされる。簡単にいえば弱肉強食を是とする考え方だ。そういう考えの下では、すべての人間は生身の人間としてではなく、単なる統計数字のような存在に貶められる。人の命も金の額に解消されてしまうわけだ。だからブラック企業と言われるものの経営者が、個々の従業員を一人の人間として扱うのではなく、金を儲ける機械のようなものとして扱うようになるわけだ。金を儲けることのできない従業員は、出来損ないの機械として、廃棄されるのだ。

また、経済的に自立できず生活保護に頼るような輩に同情する必要はない。彼らは人の情にすがって生きているのだから、ボーダーラインギリギリの生活に甘んずべきで、気晴らしをするなどもってのほかだ、ということになる。

そんな社会では、人間を人間として見ることが、意味のない無駄なことのように扱われる。弱い奴は自分に問題があるから脱落するのだ。強い奴が弱い奴を搾取するのは自然の摂理というべきもので、何らやましいところはない。かえって、人間を人間として見ようとする者があれば、そいつは意味のないお題目を唱えているのに過ぎない。そんなお題目を唱えている暇があるなら、自分でも儲かるように努力しろ、というわけだろう。

こんな社会で育った少年少女たちが、他者に対する想像力を持てなくなるのも、ある意味自然なことではないだろうか。いまの社会の大人たちは、少年少女たちが、もっと想像力を働かせて、他者を自分と同じ人間同士と受け取れるように、育てていくべきではないのか。







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