カズオ・イシグロ「わたしを離さないで(Never Let Me Go)」

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カズオ・イシグロは、日本人を両親として日本に生まれた。だから日本人と言ってもよいのだが、作家としての活動は英語で行っている。というのも、イシグロの5歳の時に一家はイギリスにわたり、それ以来イシグロはイギリスで育ち、イギリス人として自己形成してきたので、今ではイギリスに帰化してすっかりイギリス人になりきり、作家としての活動も、英語でするようになったからだという。一方、彼が生まれた国の言葉日本語は、もうしゃべれないそうだ。

そのイシグロが、作家としての活動が世界中から高く評価され、いまや村上春樹と並んで、日本に縁のある作家としては最高の位置づけを与えられているというので、筆者はかねてから気になっていた。

そこでこのたび Never Let Me Go(日本語訳は「わたしを離さないで」)を読んでみた。イシグロの作品の中では、ブッカー賞を受賞した The Remains of the Day(日本語訳は「日の名残り」)と並んでもっとも評価の高い作品だ。

読んでみての印象は非常に複雑なものだった。まず、テーマ設定。これは現実には決してありえない非現実的なことを、極めてリアリスティックに描き出している。まるで、ホラー映画を見ているようだ。起きていることは超現実的なのだが、それがあたかも自然に起きていることとして描かれる。だからそれを見ている者は、なにがなんだかわからなくなり、そのうち錯覚と眩暈に襲われる、といった体の作品だ。

次に、表現のスタイル。小説は一人の若い女性の追憶という形をとって語られる。その女性の語る言葉は、実に生き生きとしている。これは原文を読むと良く感じるのだが、言葉遣いが非常にコローキアルである。こんなコローキアルな言葉で書かれた小説というものは、これ以前にはないのではないか。(かくいう筆者は、そんなに多く読んでいるわけでもないが)少なくとも、筆者にとっては、非常に新鮮に感じられた。

また、物語の進め方。これは結構と言い換えてもよい。この小説は実に綿密な結構によって支えられている。書きはじめる時には、全体の構造が細部にわたるまで正確に設計されており、その設計図を実地に展開するようにして叙述が進んでいく、という風に感じさせる。これは、この小説のように、ホラーあるいは謎解きの要素をもった作品には必要な態度だ。設計がいい加減だと、ホラー小説も探偵小説も成り立たない。

ざっとこんな印象をまず抱いたのだが、そのあとで筆者は、これを村上春樹の作品と比較する誘惑にとらえられた。まず物語の進め方が全く違う。村上の場合には、自分でもいっているように、始めからがっしりとした設計図を作成し、それに基づいて進めていくタイプの作家ではなく、いわば書きながら考えるタイプの作家だ。それ故、とんでもないハプニングが起こったり、筋が途中からまったく別の方向へ脱線していったりと、融通無碍なところがある。それは、場合によっては作品をまとまりのないものにする危険を伴うが、うまくいくと、思いがけない効果をもたらす。作品に色気のようなものが出てくるのだ。村上の作品の魅力は、この色気に負っておる部分が多い。

ところがイシグロの作品には、村上におけるような脱線やハプニングは一切おこらない。それは綿密な設計図に基づいてきっちりとコントロールされているのである。それ故読者は作品全体を読み終えて初めて作品のテーマとか作家の意図が推測できる立場に立てるし、作品をトータルに味わえる立場に立つ。ところが村上の場合には、作品は様々なプロットが、大した秩序もなく合わさって出来上がっている。だから全体を読まなくても理解できる部分があるし、またそれだけ切り離して鑑賞できる部分もある。ここのところが、村上とイシグロの決定的な違いだろう。

それにしても、この小説のテーマは異常だ。これは、いわば臓器提供を目的に作られたアンドロイド・ロボットの物語なのだが、そのロボットが人間の心を持ってしまった。人間の心を持ってしまったからには、我々本物の人間は、それにたいしてどう接していけばよいのか。それを考えさせるように作られている。しかし、正面切って考えろとはいっていない。人間の心をもっている一ロボット少女の回想する物語を通じて、そのように考えるよう導かれている。しかも、少女は、自分が不幸なロボットだとは一言も言っていない。彼女は、自分が普通の人間とは多少異なってはいても、人間であることに違いはないと考えているし、その一方、自分たち臓器提供型ロボットが普通の人間のために使い捨てにされることに疑問を感じるでもない。(人間の心を持っているのだから、無論、悲しさは感じる)

この小説は、ヘールシャムという名称の、寄宿舎のような施設を舞台に、少年少女たちが次第に成長していく様子を牧歌的に描いていく。この施設にいる子どもたちは、自分がどのように生まれ、将来どのような人間になるべきかについて、年齢が進むにしたがって、それなりに考えるようになる。しかし、考えたからと言って、満足する回答が得られるわけではない。そうこうするうちに、少年少女はいよいよ自分たちの本来の使命を知らされることになる。それは普通の人間のために自分の体の一部を提供するということだ。そのことを知った少年少女たちは、だからといって絶望するわけでもないし、また自分の運命から逃れてようとして反抗するでもない。彼らには、自分の運命に従うしか道はないのだ。

そんなところが非常に不気味に感じられる。あまりにも不気味過ぎて受け入れられない。その受け入れられないような異常さが、この小説に独特の魅力をもたらしている。そんなふうに感じた次第だ。


関連サイト:日本文学覚書 



 




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