知覚と悟性:ヘーゲルにおける概念的認識

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カントは、人間の認識の源泉は直感と概念の二つであると考えた。直感を通じて対象が与えられ、それに概念を当てはめることによって思考が生じる。直感の能力を感性といい、概念的な思考の能力を知性という。人間は感性と知性を組み合わせることによって高度な認識を行うことが出来る。「この二つの能力の特性を比較してみても、どちらが勝っているともいえない。感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは対象を思考することができない」(中山元訳)

一方、感性にも知性にもアプリオリな能力が備わっていて、人間はそれらを用いることで対象を認識する。それは感性にあっては時間と空間という枠組(直感の形式)であり、知性にあっては概念の枠組としてのカテゴリーであった。人間は感性において与えられた直感の対象を材料にして、それを概念の枠組に当てはめることで、知的な認識を行う。

このように、カントの認識論は、感性論と知性論の二つからなっている。これに対してヘーゲルの認識論は、感覚的確信、知覚、悟性の三つからなっている。感覚的確信がカントの感性に対応する部分で、知覚と悟性がカントの知性に対応する部分だ。つまりヘーゲルは、カントの知性にあたる部分を、知覚と悟性の二つに分けたわけだ。

カントにも知覚を論じた部分はあるが、それは個別的な対象についての概念的な判断(それをカントは知覚判断という)として、知性の中でも比較的低次の働きとして位置付け、独立した位置づけまでは与えていない。

ヘーゲルにおいては、感覚的確信が個別的な「このもの」を対象にしているのに対して、知覚はもっと一般性のある「もの」を対象にしている。わかりやすく言えば、感覚的確信は「自分の目の前にあるこの塩はしょっぱい」というのに対して、知覚は「塩というものはしょっぱいものだ」という。

知覚は塩という一般的な対象を巡って、一つの単一体(実体といってもよい)に様々な属性を帰属させる。塩というものは、白いもので、結晶体の構造を持っており、かつしょっぱいものだ、という具合に。この場合の塩というものの単一性を「一」とすると、属性の雑多性は「多」と称することが出来る。この一と多との間には独特の弁証法運動が生じる。

知覚は始めのうちは、対象は単一の実体で、それが白いと感じたりしょっぱいと感じたりするのは人間の側に原因がある、と考えている。つまり対象は一で、多は主観のほうにある。そうすると、対象は内容のない空虚なものとなってしまい、他のものとの区別がつかなくなる。そこで知覚は、対象の側にこそ多があり、それを一にまとめているのは人間の主観の方だと思い直すようになる。このようにして、一から多へ、多から一へと循環する弁証法の運動が生じるというわけだ。ここらへんはヘーゲル特有の論理が躍如しているところだ。

この弁証法の運動から生まれてくるのが悟性である。知覚が「一(実体)」と「多(属性)」の対立ととらえたところを、悟性は「力」とその「発現」という形に置き換える。こう置き換えることで、どこがどう変わるのか。

一番大きな違いは、知覚がまだ個別性に囚われているのに(塩というものは一般的な概念であるにはちがいないが、個別的な塩をどうしても連想させる)、悟性の方は個別的な事象を超えて普遍的な概念を対象にしていることだ。例えばエネルギーといった概念は、個別性を超えた抽象性の高い概念である。そのエネルギーについて論じる場合には、塩とは別の論理が必要だ。塩の場合には実体と属性、一と多、という概念枠組みで十分説明できるが、エネルギーはそうはいかない。エネルギーに限らず、抽象度の高い概念は、別の説明原理を必要とする。それが力とその発現、内面と外面、本質と現象といった形をとるわけである。

この新たな対立図式は、カントの物自体の議論を強く意識していると考えられる。カントは現象の背後にあるものを物自体と呼んで、その存在の可能性を否定しはしなかったが、かといって肯定もしなかった。それはあくまでも虚構の前提であって、我々人間の直接認識できる(つまり直感できる)ものではない。したがって客観性を主張できるようなものではない。そうカントは考えたわけだが、ヘーゲルはそれを無効にするような議論を、ここでは展開している。

我々は感覚的なものを現象と見、その背後に超感覚的なものがあると考えてそれを本質とする。本質こそ現象が生じる原因であるとするわけだ。そしてその本質なるものが、自立した存在だととらえれば、それはカントのいう物自体と同じものになる。しかし果してそうなのか、とヘーゲルは問い直す。

カントの物自体の議論は、彼岸にあるものを本質と考えて、感性的な世界をその現象と見做しがちだが、実はその逆で、我々は感性的な世界の現象を説明するために、本質を作り上げたのではないか。ということは、現象も本質も我々の認識活動内部で生じることがらだということだ。我々は、我々の認識活動の外部にある物自体によって触発されるかたちで、現象に接すると考えがちだが、実は本質も現象も我々の認識活動内部の出来事なのだ。こう主張することでヘーゲルは、カントの物自体の議論を無効にしてしまうのである。


関連サイト:ヘーゲルの哲学






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