福沢諭吉の家族愛

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福沢諭吉は、自分が自伝を著したのは、子どもたちのために父親や祖先の来歴を伝えるのが主な目的だったといっている。かといってそれは単なる系図の延長のようなものではない。系図なら血筋の連綿たるを記せば済んでしまうが、福沢が行なったのは、それにとどまらない。自分の生き方について飾らずに書き、自分がどんな人間であったか、どんな考え方をして、どんな風に生きたか、それを詳細に描き出している。ということは、子どもや孫たちに、父親乃至祖父の生き方をさらけ出して、彼らが生きていくうえでの一つの参考にしてもらいたい。そんな思惑が込められているのだと思う。つまり福沢は、一種の家族愛から出発して、この自伝を書いたということになる。

福沢は自伝の外に、子どもたち一人一人について、成長日記というべきものを丁寧につけてもいた。後日彼らが成長した暁に、自分がどのように育ってきたか。その記録を残しておいてやりたい。いまなら写真という便利なものがあって、親は写真を通じて子供の成長を記録しておくことが出来るが、福沢の時代にはそんなものはない。文字にせよ絵にせよ、手づから作ってやらないことには、子どもは自分がどんな風に育ってきたか、知る由がないということになる。それでは不憫だから記録を残しておいてやる。こんなところにも、福沢の親子愛、ひいては家族愛をみることができるのである。

福沢諭吉は満二歳の時に父親を失い、母親が一人で五人の子を育てた。長兄は福沢より八歳年上で、その下に三人の姉がいた。下級武士で大した家産もなかった福沢の家は、一家の主人を失ったわけだから、今なら残された母子は生活に窮し、場合によっては路頭に迷うこともありうるだろう。しかし、当時の封建制度には、福沢が執拗にいっているとおり悪いところばかりが目についたのも確かだが、家臣の生活は最低限度の面倒をみてやる、というようなところもあって、そのおかげで、一家は何とか食いつなぐことが出来、諭吉や兄姉たちも無事成長することが出来た。

福沢が家族思いなのは、幼いときに父親を失い、残された家族が母親を中心に、寄り添いあうようにして育った環境と無縁ではあるまい。諭吉は生涯母親を大切にし、また兄姉の子どもたちとも親子のように接するなど、係累を非常に大事にしていた。兄が死に残した娘(諭吉にとっては姪)を後に三田に引き取っているし、また姉の子でただ一人の甥である中上川彦次郎には海外留学をさせてやるなど、実の子のように面倒を見ている。

福沢自身は九人の子に恵まれた、福沢が結婚したのは文久元年(1861)のことで、娶ったのは、中津藩士の上級武士の娘であった。自伝ではこの時自分は二十八歳、妻は十七歳だったといっているが、それは数え年の計算で、満年齢では、福沢が二十七歳、妻は十六歳だったことになる。女の婚期の早いことは、今からは想像できないが、当時はそんなものだったのだろう。結婚の翌々年には長男が生まれている。

福沢の子どもたちへの接し方は、どちらかというと自由放任というに近く、身体さえ丈夫であれば、勉強のことはうるさく言わなかった。それでも、将来の教育のことは早くから案じていて、上の二人の子には是非海外遊学をさせてやろうと思い、こつこつとそのための資金を貯めると言った体であった。そんな話をどうやって聞きつけたか、ある人が子どもたちの教育資金を立て替えてやりましょうと言ってきた。福沢は大いに気持が動いたが、そうなっては大事な子どもを他人によって質にとられたも同然ということになる。それは困ると思い直してその申し出を断ったのであるが、幸いなことに事業がうまく回転して子どもたちの留学費用を捻出できたばかりか、たった一人の甥まで留学させてやることが出来たと言って喜んでいる。

長男次男をアメリカに留学させるにつき、福沢は子どもたちに手紙を書くことを義務付けた。書くことが無ければ、そう書けばよい。とにかく手紙をやり取りしていれば、お互いの消息が確認できて、安心していられる。こうして、二人がアメリカに留学した六年間の間に、福沢は子どもたちに向けて三百何十通もの手紙を書いた。郵船が日米を往来するごとに、必ず福沢親子の手紙も往来した勘定だ。こんなところにも、福沢の子どもへの気遣いを感じとることができる。

海外留学までさせてやったのは、上の二人だけだが、かといって、それ以外の子どもたちに愛情が厚く及ばなかったということではないと福沢は言っている。自分は子どもたち一人一人を、何らの差別を差し挟まずに平等に愛した。その証拠に、自分が死んだ後に残った財産を、たとえわずかなものにせよ、子どもたちに平等に残してやりたいと考え、あとで喧嘩が起こらぬように、遺言の形にしておき、その内容も生前から知らしめておいた。こうしておけば、無用の争いも起りようがなく、子どもたちはいつまでも仲良く付き合っていけるに違いない。そんな福沢の老婆心が伝わってくる。

福沢が生涯憎んだ封建門閥制度のもとでは、子どもの間にはおのずから差別をつけなければならない。家督を継げるのは長男一人ばかりだし、二男以降の男子は、藩から特別の役職を貰えない限りは自立して生きていくことが出来ない。だから、他家へ養子に出すか、あるいは坊主にでもするほかはない。福沢自身も、亡くなった父親が自分を坊主にする心つもりであったことを、後になって母親から聞かされた。実際下級武士の二男では、武士として生きていくことは不可能だっただろう。

こんな事情があったからこそ、福沢は自分の子どもたちには平等に愛情を注ぎ、一人一人が自立していけるよう意を尽くしたわけであろう。

ともあれ、福沢の家族愛は、家族というものがまだ重要な意味をもっていた時代の、自然な現れだったのかもしれない。個人は家族やその延長である血縁によって支えられているからこそ、社会のなかで自立して生きていける。そんな古き日本社会のあり方が、福沢諭吉という一人の人間の生き方を通じて、ひしひしと伝わってくるのである。


関連サイト:日本史覚書 







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