クラナッハの官能美

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ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach:1472-1553)は、アルブレヒト・デューラーより1年後に生まれた。ということは、全くの同時代人である。とはいっても、美術史上の評価はデューラーにははるかに及ばない。デューラーの方は、ドイツ近代絵画の父として、また北方ルネサンスの巨人として、確固とした名声を確立しているのに対して、クラナッハの方は、風変わりな、それも極めて官能的な絵を残した、どちらかと言えばマイナーな画家という位置づけに甘んじている。実際、日本においても、デューラーの画集や研究書は簡単に手に入るのに、クラナッハの方はほとんど手に入らないというのが現状だ。

そんなクラナッハに筆者が興味を覚えたのは、ウェヌスや三美神をテーマにした独特の裸体画が、美術史上に例を見ないような独自性を感じさせたからだった。それらの絵に描かれた女性たちは、非合理に見えるほどデフォルメされているのだが、それがかえって、写実的な絵からは感じられないような、性的なインパクトを感じさせる。要するにユニークなのだ。そのユニークさは、デューラーのそれとは全く違う。たしかにマイナーかもしれないが、こんなユニークな絵があってもいいのではないか。そんなふうに筆者には感じられたのである。

クラナッハのユニークさは、おそらく彼がドイツのローカルな伝統から出なかったことの結果だったと思われる。デューラーは、フランドル絵画の伝統を土台にして、それにイタリアルネサンスの精神を接ぎ木することで、かなりユニバーサルな地歩を確立することが出来た。要するに時代の先端を走ることが出来たわけである。これに対してクラナッハの方は、フランドル絵画の影響も受けていないようだし、ましてやイタリア絵画の影響はほとんど受けていない。
構図的にも色彩的にも、ドイツのローカルな伝統を再現しているに過ぎない。そのローカル性がかえって、クラナッハをこの時代のドイツ絵画の一方の雄に位置付けさせたのではないか。

しかし、クラナッハにも作風の変化(あるいは発展)が無かったわけではない。初期のウィーン時代の作品と、後記の作品との間には顕著な差異があり、同じ人間によって書かれたものとは思えないほどである。

ウィーン時代のクラナッハは無名の画家であったのだが、1505年にザクセン選帝侯の宮廷画家に収まって以降は、ドイツを代表する画家としての名声を確立するようになる。この画家としての成功が、彼の作風の変化と一定のかかわりをもっているらしいことは推測されるのだが、それがプラスの方向への進化だったのか、あるいはマイナスの方向への退化だったのか、その判断は評者によって分かれている。今日では退化とするのが通説のようだが、筆者の目にはそうは映らない。クラナッハの代表作はやはり、ウィーン時代の宗教画ではなく、後期に次々と生み出された裸体画だと思うのである。

クラナッハの作品を見て感じることは、同じようなテーマの絵を何枚も書いている事である。たとえばウェヌスとキューピッド。これは1509年に書いたものを始め、生涯にかけて40枚近く描いている。三美神、ルクレチア、パリスの審判といったテーマについても、同様に繰り返し描いている。

これらは、当時のドイツ人にとって人気のあるテーマだったのだと言われている。そこで、クラナッハの絵に感心した人々が、次々と同じテーマの絵を注文した。それに応える形でクラナッハの方も同じような絵を次々と、いわば性懲りもなく描き続けた、というのが真相らしい。もっともそれらの絵のすべてをクラナッハ自身が全面的に描いたというわけでもなく、多くは工房の弟子たちの手が入っていると推測されている。

裸体画の次にクラナッハが多く描いたのは肖像画である。これは、クラナッハが宮廷画家であったということと関連がある。クラナッハは、1505年にザクセン選帝侯フリードリッヒ三世によってヴィッテンベルグの宮廷に招かれて以来、ヨハン、ヨハン・フリードリッヒの三代にわたって宮廷画家として仕えた。宮廷画家というのは、単に絵を描くにとどまらず、様々な催し物の装飾など幅広い活動に従事したらしいが、中心はやはり、侯爵やその家族、また宮廷人たちの肖像を描くことであった。

クラナッハといえばもうひとつ、マルチン・ルターとの交流を忘れることはできない。ルターは1512年にヴィッテンンベルグ大学に招かれて以来、ヴィッテンベルグを主な生活根拠にし、宗教活動の舞台も主にこの都市だったわけだが、そんなこともあって、ヴィッテンベルグに住んでいたクラナッハと自然に付き合うようになったらしい。

単に親しく付き合っただけではなく、ルターが宗教改革運動を始めると、クラナッハはその熱心な支持者になった。主人のザクセン選帝侯がルターを保護したこともあって、クラナッハのルター支持は抵抗なく実施されたらしい。

クラナッハによるルターの肖像画は、1520年頃から描かれ始め、夥しい数に上った。ルターの名声が高まるにつれ、その肖像画の需要が増えたためだと思われる。その需要に応えるために、クラナッハは種絵となるデッサンをもとに、弟子たちに大量生産させたようだ。それらは恐らく飛ぶように売れたのだろう。

ザクセン選帝侯の宮廷画家として、クラナッハはヴィッテンベルグに大きな工房を構え、沢山の弟子を抱えていた。また、クラナッハは処世術にも飛んでいたようで、ヴィッテンベルグ市内のいくつかの不動産を所有し、また、印刷所を経営して、自分で作成した銅版画の本を出版したりもしていた。多面的な活動をしていたわけである。

クラナッハの息子も父親と同じくルーカスと名づけられた。この息子は父親ほどの才能は持たなかったが、それでも画家として一定の成功を収めたし、また、父親の後を継いで、ザクセン選帝侯の宮廷画家に収まった。


関連サイト:壺齋散人の美術批評 








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