西鶴一代女:溝口健二の世界

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溝口健二の映画「西鶴一代女」は、井原西鶴の小説「好色一代女」が原作だ。だが、原作を忠実に再現したものではない。ストーリーがかなり自在に変えられているほかに、作品のテーマというべきものが、まるで違っている。西鶴の小説は、好色女の自由奔放な一代記を描いたものだが、溝口健二の映画の主人公はただの好色女ではない。溝口が描いた女は、ある意味で時代の犠牲者だったのであり、彼女は時代の抑圧に耐えなから、人間的な尊厳を失わずに生きたということになっている。

周知のとおり、西鶴の小説家としての原点は「好色一代男」だ。この小説の中で西鶴は、世之介という架空の男に仮託して、人間の好色な業をえげつないまでに描いたのであるが、「好色一代女」もその延長上にある作品だ。世之介を女にかえただけで、人間の好色の本質を追求しようとする態度は共通している。好色一代女の主人公には、男である世之介とちがって名前はないが、一人の女として存在感を持ち、好色なことにかけて世之介に劣ってはいない。彼女もまた、世之介も顔負けするほど貪欲に性的快楽を追求する人間として描かれている。

西鶴の原作では、名前のない女主人公は、宮中の召使いから始まって、踊り子、大名の妾、島原遊郭の太夫、女郎、寺小姓、坊主の妾、祐筆、商家の女中、歌比丘尼等々を経て最後は尼僧で終わるのだが、その間に経験する境遇は、当時(17世紀の日本)において、およそ女性にとって考えられたあらゆる職業に及んでいると思われる。西鶴の女主人公は、これらの境遇を転々と渡り歩きながら、そのたびに男を誘惑して、性的快楽を謳歌するのである。

溝口健二は、原作の女主人公にお春という名前を与えてやったうえで、そのお春が、宮中の女中勤めに始まって様々な境遇を渡り歩き、最期には尼僧となって遍歴するという筋立てについては、おおむね西鶴の作品に負っている。しかし、西鶴の女主人公と違って、この映画の女主人公は、自分の意思で男を誘惑するのではなく、他人の意思に翻弄されて致し方なく身を売るような羽目に陥り、そのたびに身を持ち崩して最後には夜鷹にまで転落する。それでもなお、人間としての自尊心は失わない。そんな高貴な心性の女性として描き上げるのである。この点、溝口一流の女性賛美のひとつの典型であるともいえる。

映画は夜鷹の集団を映すことから始まる。彼女らの一人お春(田中絹代)が、寺の中の羅漢像の群に目をやるうち、その一つの顔が昔の男の顔に重なる。その男とは、宮中勤めをしていた時に言い寄ってきた男なのであった。西鶴の原作では、主人公の女は羅漢像に重ねて今まで出会ってきた男たちの一人一人の顔を思い浮かべることになっており、その中にこの男の顔は出てこない。だから、この場面は溝口特有の仕掛けなのである。

さて、その男(三船敏郎)とお春とはねんごろな中になったのだが、そのことが、封建時代の世には不届き千万というので、二人はお上に逮捕され、男は打ち首、お春は父母ともども洛外追放の処分に付されてしまう、という理不尽な目に合うのである。

男は打ち首にされる際に、言い残すことはないかと役人に言われて、遺言めいた言葉を残す。それは、「何故、男女慕いあうのが悪いのでございます。何故それが不義なのかわかりませぬ。身分などというのもがなくなって、誰でも自由に恋のできる世の中が来ますように。お春さま、真実の思いに結ばれて生きなされ」というものだった。

17世紀の日本人がこんなことをいうとはとても考えがたく、実際に西鶴の原作にも出てこない。溝口健二が勝手にもち込んだ部分なのだが、彼がわざわざこういう言葉を入れたのには、時代背景も作用していたのであろう。この映画が公開されたのは1952年、日本社会は戦後民主主義が花開こうとしていた時代だった。溝口はそんな時代精神を背景にして、男女の自由恋愛の思想を、場違いなところに織り込んだものらしい。

ともあれ、男の遺言を聞かされたお春は、以後「真実の思いに結ばれて生きて行こう」と決意したが如く、次々と数奇な境遇に身をゆだねていくのである。

お春にとって、次の重大な転機は、さる大名の妾になる事だった。世継ぎが出来ず、お家断絶の危機に瀕した大名家が、家臣に妾を探させる。家臣は、妾になる女の条件を記した紙を持って京都にやって来る。だがなかなか条件にあう女が見当たらない。そこへ、野山の園遊会の席上踊っていたお春が目に留まる。彼女のあらゆる部分が、妾になれる女の条件を備えているというわけなのだ。

こうして、大名の妾となったお春は一人の男子を出産する。しかし世継ぎを生んだお春にはもう用はないというわけで、お春はなんだかんだと因縁をつけられて大名家から追い出されてしまうのである。

この部分は西鶴の原作とは違っている。西鶴の原作では、子どもが生まれるとはなっていない。そのかわりに、大名が日に日に衰弱していく。それは大名が女の色香に惑わされ、あまりにあちらの度を過ごした結果であるとして、追い出されるということになっている。

追い出されて実家に帰ってくると、お前の出世をあてこんで借金が増えてしまったので、それを返すために、島原に行ってくれと父親からいわれる。親の欲のために、身を売れと言われるわけである。しかし、お春は反抗することもなく、いわれるままに身を売るのである。

映画ではこの先、商家の女中となっておかみさんの髪を結ったり、やっと持つことをできたささやかな所帯が、亭主を盗賊に殺されることで失ったり、尼寺に世話になるようになったものの、寺の中でセックスしているところを住職に見られて追い出されたり、商家の丁稚と駆け落ちした途端にその丁稚が連れ去られたりと、数奇な人生を送り、その旅に身を一段下へと持ち崩すうち、ついには乞食の境遇に落ちてしまう。

乞食になったお春が寺の門前で三弦をつま弾いていると、ある行列が通り過ぎる。その行列の中心には、お春の子どもが駕籠に乗っている。無論お春にそんなことはわからぬが、何かにせかされるように、その行列をじっと見つめるのだ。

衰弱しきったお春は、夜鷹の集団に助けられ、それが縁になって自身も夜鷹になる。ここで残酷な場面が出てくる。客だと思って男についていくと、あるところに案内される。そこには複数の男たちがいたのだが、お春を案内した男は彼らに向かってお春の顔を見せ、化け猫には騙されるなと忠告する。それがあまりにも人を馬鹿にした話なので、さすがのお春も逆上する。そして、腹いせに化け猫の真似をしてみせる。しかし、もらった金を放り出すようなことまではしない。いくら気位の高いお春でも、さすがにそこまでする気力は残っていないのだ。

ここで、画面は冒頭のシーンにもどるというわけなのだ。冒頭のシーンに続いて、三船敏郎が「真実の思いに結ばれて生きなされ」といった言葉を、お春は思い出すのだが、果して自分の人生は、この忠告に応えたものとなっただろうか。

ここで画面は更に一転して、お春が息子のいる大名家に召し戻されるという話に変る。この運命の急変に、お春は戸惑いつつも喜ぶのだが、その大名家に行ってみると、過酷な話が待っていた。

自分が召し戻されたのは他でもない。大名の世継ぎの母親が売春をしているということが表沙汰になってはゆゆしきことだ。だから、お前を国元に幽閉するというのだ。だが、その前に一度だけ子どもにあわせてやろう、といわれるが、面と向かっての対面ではない。子どもが邸内を歩いている姿を、庭の一隅から遠目に見るだけだというのだ。

お春が庭の一隅に、大勢の家来に囲まれながらかしこまっていると、目の前を子どもが通り過ぎる。子どもはお春の方に目を向けるまでもなく、スタスタと通り過ぎてしまう。その後をお春が追いかける。周囲の家来たちが制止しようとするが、わたしはあの子の母ですと毅然といって、なおも追いかけると、家来たちはみなその場にかしこまる。

そうこうするうちに、お春の姿はどこかに消えてしまい、彼女を乗せて国元に旅立つはずだった籠だけが、無残な姿で取り残される。

このあたりの場面が、この映画のクライマックスといってよいのではないか。お春はこれまでの生涯にわかって、常に他人の意思に服従して生きてきたが、最期には自分の意思を通すわけだ。たとえ自分の息子であっても、息子のために自分の人生を犠牲にするのはいやだ。せめて人生の最後なりとも、自分の意思に従って、自由に生きてみたい。お春のそんな意思が感じとれるのだ。

ラストシーンは、尼僧となったお春が念仏をあげながら、家々を角付して歩くシーンである。お春が念仏をあげると、家から出てきて、お布施をくれる者もいる。窓を開けて両手を振り、追い払おうとするものもいる。だがお春の心はどんなことがあっても乱れない。いまやこの世のあらゆる束縛から解放されて、ひたすら我が道をゆく。そういう悟りの境地が成立している。それ故、念仏の題目は、「請願成就」と聞こえるのだ。

なお、この映画には、日本の伝統音楽が効果的に使われている。浄瑠璃などがそのままの形で使われているほか、伝統的な日本音楽と西洋音楽とをミックスさせて、独自の音の世界を現出させている。その意味でも、この映画には非常に面白いところがある。


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