丁丑公論:福沢諭吉、西郷隆盛を弁護す

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福沢諭吉の小論「丁丑公論」は、西南戦争で逆賊とされた西郷隆盛を弁護し、併せて時の政府の横暴を非難したものである。福沢はこの小論を西南戦争の起きた明治十年に書いた。しかしてその年の歳次丁丑を以て題にあてたのであるが、その内容の過激にわたるのを憚って公刊を見合わせ、長く抽底に眠らせていたものを、弟子の石河幹明が明治三十四年に発表したのであった。

まず、福沢は何故この小論を書いたのか。その動機を、次のように言っている。

「余は西郷氏に一面識の交もなく、またその人を庇護せんと欲するにも非ずといへども、特に数日の労を費して一冊子を記しこれを丁丑公論と名づけたるは、人のために私するに非ず、一国の公平を保護せんがためなり」

つまり、私の感情に駆られてなしたことではなく、一国の公平を保護するためになしたというのである。ということは、西郷を逆賊呼ばわりする時の世論に、公平を著しく損なうものあることを感じ、正義を回復するために、この論を記したということであろう。

当時の世論は、西郷の敗北するやこぞってその無謀を非難し、「これを罵詈讒謗して至らざるところなし。その有様はあたかも官許を得て人を讒謗するものの如し」といったものであった。それを身近に見た福沢は、「今の論者を評するにはただ暗愚の二字を以て足るべきのみ」と確信するのである。

されば、当時の論者が西郷を批判する論拠といえば、ひとつにはその行為が大義名分を欠くというものであり、もう一つには政府への反逆は即ち国賊であるとする単純な理屈であった。それらについて福沢は丁寧に反駁を加える。

まず、大義名分と云うが、いったい論者の言う大義名分とは、ただ黙して政府の命に従うということに過ぎない。そんな大義名分は薄っぺらなものに過ぎない。「西郷は兵をあげて大義名分を破りたりといへども、その大義名分は今の政府に対しての大義名分なり、天下の道徳を害したるものにあらず」

同じような理屈から、政府に逆らう者を国賊とする議論もなりたたない、と福沢は言う。そんな議論が成り立つならば、「世界古今何れの時代にも国賊あらざるはなし」というわけだ。

そもそも西郷は、生涯に政府の転覆を二度企てた。一度目は維新の時であって、その時には徳川幕府を転覆した。二度目は今度の西南戦争であって、これは西郷にとって不運なことに失敗に終わった。一方は成功、他方は失敗と相違はあるが、政府への反逆と云う点では毫も相違はない。しかるに最初の反逆には忠義の名を与え、後の反逆には国賊の名を与える、というのは筋の通らない話だ。

では西郷は、何故維新政府の転覆に立ち上がったのか。その内実を細かに表すれば、政府部内の権力争いに端を発したものだ。「王制一新の功臣が、成功の後に不和を生じて、その一部分は東に居残り、一部分は別れて西に赴きたり」というに過ぎない。だいたいが、西郷が征韓論に破れて鹿児島に退いた時、政府の主流派はそれを黙視し、何ら制裁を加えることあらざるのみか、給与を支給し続けたほどではないか。それは東に残った連中が西郷に対してコンプレックスを感じていた証拠だ。そのうちに、政府による圧制が強まり、その噂が西の方にも流れてくるようになって、西郷旗下の連中は義憤に駆られるところとなり、ついには政府転覆の挙に及んだのである。

これはだから、西郷の側に抵抗精神が残っていたと捉えることもできる。抵抗精神とは、政府の暴虐を正して一国を発展せしむる原動力となるものだ。人民の間に抵抗精神がなくなれば、その国民は衰退するほか道はない。したがって西郷のような抵抗精神の豊富な人材を持ったことを、日本人は誇りとしなければならない。その西郷を罵り、政府におべっかばかり使う連中が跋扈するようでは、日本の行く末は明るいとは言えない。

ただ、抵抗と言っても、腕力ばかりが手段ではない。知力もまた立派な手段である。知力を働かせて言論を展開し、政府の横暴を人民に解いてその転覆を図る。この方がずっとスマートなやり方だ。ところが西郷にはそこのところがうまくいかなかった。「けだし西郷は知力と腕力の中間に挟まり、その心事、つねに決せずしてつひに腕力に制せられたる者といふべし」

そんなわけで、「西郷の罪は不学に在りといはざるを得ず」ということになる。

西郷といえば、維新最大の功労者である。その功労者を、維新政府は、権力争いの末に殺してしまった。これは薄情な行為であるばかりか、有為な人材を無駄にしたということからも、許されることではない。そう思ったのだろう、福沢は、西郷の死が日本にとっていかに損失となったかを嘆きながら、この小論を結んでいるのである。即ち曰く。

「西郷は天下の人物なり。日本狭しといへども、国法厳なりといへども、豈一人を容るるに余地なからんや。日本は一日の日本に非ず、国法は万代の国法に非ず、他日この人物を用るの時あるべきなり。これまた惜しむべし」

上記から察せられるように、この小論の真の趣旨は、西郷という人物に仮託して人民の抵抗精神の大事さを説くところにあると言ってよい。抵抗精神の権化ともいうべき福沢諭吉が、西郷隆盛と云う同時代人に、自分にとってかけがいのない同志を見つけたということなのだろう。


関連サイト:日本史覚書 








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