遠藤周作の短編小説

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遠藤周作の短編小説を二篇「男と九官鳥」、「四十歳の男」を読んだ。いずれも、結核患者の病院生活と、その中で患者に飼われる九官鳥をモチーフにしている。遠藤自身の体験を基にしたもので、その意味では私小説の系譜に属するものと思ってよい。遠藤自身、30代の末頃に結核の手術を三回にわたって受け、死ぬ覚悟までしていたというが、その時に飼った九官鳥によって慰められたと言っている。そしてその九官鳥は、「四十歳の男」の九官鳥と同じように、遠藤の三回目の手術が成功裏に終わった時に、遠藤の身代わりのように死んでいったということだ。

それ故、何故九官鳥なのかという疑問には、遠藤自身が答えてくれているわけである。遠藤はこの九官鳥に向かって、自分の悩みや秘密を打ち明け、心の平衡を保とうと努めた。周知のとおり遠藤はカソリックで、カソリックには告解という儀式があるが、遠藤は九官鳥を神父の代理に見立てて、自分の秘密を打ち明けていたというのだ。その時の九官鳥の目は独特の色を帯びていたという。「両親の離婚を知らされた少年の後をついていく雑種の犬。少年が立ち止ると犬もまた立ちどまり、彼をじっと見上げている」そんな犬と同じ目だったというのだ。ということは、人間の嘆きに寄り添う目だということだろう。

こんなわけで、このふたつの短編小説は、九官鳥を媒介にして人間の因縁のようなものをあぶりだそうとしているのといえるのだが、テーマの割には暗さを感じさせない。それは遠藤の文章がもつ軽やかさのせいであろう。遠藤は結構ユーモアに富んだ洒落た文章を書く。深刻なことをあっさりと表現する。たとえば、意地の悪い看護婦を患者が非難するところで、「人情いうもんのヒトカケラもあの女は持っとらんで。岸首相みたいな奴や」といった具合に。

こんな調子だから、読者は悲劇的なことを聞かされても、じめじめとした暗さを感ずることがないのだ。

「男と九官鳥」の中の九官鳥は、主人公である語り手のものではなく、他の患者が持ち込んだものということになっている。主人公たちはこの九官鳥が気に入ってしまい、持主に代って世話をしたりするが、そのうちに世話にうんざりして持主に押し付ける。しかしその持主が手術の失敗から命を落し、九官鳥は再び主人公たちのもとに戻される。その九官鳥が持主の老人の侘しげな声を真似して「カアちゃん」とつぶやく。それを聞いた主人公たちは老人の胸中を推し量って、自分たちも侘しい気分になる。そんな主人公たちに向かって九官鳥は「マヌケ」と呼びかける。それは主人公たちが日頃九官鳥に向かって腹立ちまぎれに浴びせかけていた言葉だった、という他愛ない筋書のものである。

「四十歳の男」の主人公は、妻に無理を言って九官鳥を買ってもらったということになっている。妻は自分の嫁入り道具をせっせと売り払った金でその九官鳥を買ってくれたのだった。当時九官鳥は結構高価だったらしいのだ。その九官鳥に向かって主人公は、「俺は死にたくない・・・生きたいよ、俺は」と呼びかける。彼には他に秘密があるのだが、それを九官鳥に向かっていうわけにはいかない。もしもその秘密を九官鳥が妻の前でしゃべったりしたら、えらい騒ぎになるからだ。

その秘密とは、妻の友人の女と浮気をしたということだった。それも妻のいない時に妻のベッドで一緒に寝た。しかもその結果女は妊娠した。そしてカソリックの自分にとって、堕胎は大罪であることがわかっていながら、その女に堕胎をさせた。そんなことが妻に判ったら大変なことになる。その友人の女が今は結婚して幸福になって、夫と共に主人公のベッドの前にいる。妻も一緒だ。

結局主人公は、自分の秘密を抱え通したまま生死分け目の手術に望み、奇蹟的に助かる。そして彼が助かったのとほぼ時を同じくして九官鳥が死ぬ。あたかも身代りになってくれたかのように。いずれにせよ、この九官鳥に向かって自分の秘密を語る機会はなくなったわけだ。

これは恐らく、遠藤自身の体験に基づいた話なのだろう。手術によって胸部の骨を切ることを「骨抜き泥鰌にされる」といい、片方の肺をまるごと切除されることを「片肺飛行機にされる」と言わせているが、これらの言葉も、結核病院の中で患者たちによって日常的に話されていたのであろう。もっともこの小説の中の浮気の話のほうは、創作上の付け加えかもしれないが。

ところで、この九官鳥は、「沈黙」のイエスにつながっていくと遠藤自身が言っている。悩める者をそっと見つめる九官鳥の目が、「沈黙」の中でロドリゲスのよごれた足に踏まれる踏絵のイエスの目と重なるというのである。

このことから、遠藤が自分の創作姿勢にかなり一貫した筋目を通していたことが察せられる。同じテーマを、いくつもの作品の中で重ねて追及していく。その過程でそのテーマを深く掘り下げるとともに、広く膨らませてもいく。そんな創作態度を貫いていたようだ。

そんな遠藤について村上春樹は、遠藤は基本的に中・長編作家であって、短編小説には論じるに足る適当なものがないと言っているが(若い読者のための短編小説案内)、どうしてどうして、ここで取り上げた二つの作品などは、短篇小説作家としての遠藤の腕前を感じさせてくれるものだ。


関連サイト:日本文学覚書 







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