浮雲:成瀬巳喜男の世界

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「浮雲」は成瀬巳喜男の代表作との評価が高い。成瀬らしい映画作りが最もよく発揮されているとともに、成瀬の映画には珍しく、ドラマ性にも富んでいる。その上敗戦直後の日本を舞台にして、社会と時代の状況を如実に感じさせる工夫にあふれている。つまり、一つの作品の中に様々な要素が盛り込まれ、それらが無理なく調和しあって、たぐいまれな世界を現出し得ている。そういう点で、非凡な作品たりえている。

成瀬巳喜男は男女間の機微を描くことにこだわった作家である。それも女の視点に寄り添うようにして描いた。だから成瀬は、女を描いた作家という定評がある。その点溝口健二に似ているが、溝口とは大分異なったところもある。溝口の場合には、男によって食い物にされる女たちや社会から捨てられた女たちを愛惜の感情を込めて描き上げたのだが、成瀬の場合には、女は一方的に弱いわけではない。女は確かに弱いけれども、弱いなりに自分を主張する。そして男と対等な立場で渡り合おうとする。無論女が男に勝てるわけはないが、それでも対等に渡り合おうとすることで、人間としての尊厳は失わない。そんなけなげな女たちを、成瀬は描いたと言ってよい。

この「浮雲」に出てくる女もそんな女の一人である。高峰秀子演じる主人公の女(ゆき子)は、とある縁でとある男と恋に陥るが、その男がまたクセの悪い男であるにかかわらず、どこかいいところもあるようで、ゆき子はこの男と離れられなくなる。自分がこの男にもて遊ばれているだけなのではないかと常に反省し、そのたびにもう止そうと思うのだが、それでもすぐに元の莢に収めようとする。こうした関係が延々と続いていく。つまり、腐れ縁のような男女関係がこの映画の中では描かれているのだが、腐れ縁と言うには収まりきれないものをもっている。それはその関係が女の強い意志に裏付けられているからだろう。この映画は、男女のただの腐れ縁を描いているというより、女の恋へのこだわり、それはつまり自分自身へのこだわりでもあるわけだが、そんなこだわりを描いたものなのである。

この映画に出演の話があったとき、高峰秀子は当初、こんな大恋愛映画は自分には難しいと思ったそうだが、たしかにこの映画は大恋愛映画に違いない。こんな恋愛映画は日本の映画史の中でもそう多くはない。しかし、欧米の恋愛映画とかなり違うところがあるのは、成瀬がそれを日本という社会の、しかも一つの時代の分脈の中で位置づけたからだろう。女が男と対等には自分の感情を素直に表現できない、そんな時代環境の中で、女が自分の感情を表現しようとすればどんなことになるか、それを綿密に追及したのがこの作品だと、とりあえずは言えそうである。

舞台は昭和21年の東京、仏印から帰還した一人の女(高峰秀子)が東京に住むある男(森雅之)の家を訪ねる。この二人は仏印滞在中に愛し合うようになり、男の方では妻と離婚して女と結婚するという約束を交わしていたのだったが、女はそれを信じて男を訪ねたというわけである。しかし、男には妻と別れるつもりはない。女は、自分が騙されていたということを思い知る。普通ならこれで男女の関係は終わるはずなのだが、この映画はそこから始まるのである。

この男は身勝手なやつで、妻と別れるつもりはないが、君との関係も続けたい、などと虫のいいことをいう。女は当然反発する。そこで散々男を罵る、わたしのことなんかどうなってもいいんでしょ、と。これ以後、この映画では、女(ゆき子)は男を罵り続けるのである。

ゆき子はこうして一旦男と別れ、生活に窮してパンパンめいたことまでやる。職を求めて闇市をうろついていた時に米兵から声をかけられたのがきっかけだ。その闇市の様子だが、この映画が作られたのが戦後10年後ということを感じさせないほど真に迫った光景に映っていた。「リンゴの唄」のメロディに乗ってちんどん屋が練り歩いている。

ゆき子がひっそりと暮らす安アパートに男(富岡)がやってきて、よりを戻そうと持ちかける。そんな男に向かってゆき子は心の丈をさらけ出し、さんざんに罵る。その場面がこの映画の一つの見どころだ。すさまじいやり取りの後、男は出て行ってしまうのだが、しばらくして正気を戻した女は男の後を追いかける。なんといっても男を綺麗にあきらめることが出来ないでいるのだ。

ゆき子のアパートにもう一人の男(伊庭=山形勲)がやって来る。義理の兄でゆき子の処女を奪ったということになっている。ゆき子が単身で仏印に行く気持になったのは、この男に強姦された傷の痛みを癒そうとする気持からだったというわけだ。この山形勲の悪党ぶりがこの映画のひとつの見どころだ。悪党でいて悪党のいやらしさをあまり感じさせない。不思議な悪党である。

なんだかんだといいながら縒りを戻したゆき子と富岡は伊香保温泉に浸かりに行く。ゆき子はこのまま二人で榛名山に飛び込んで心中しようと持ちかけるが、富岡の方では死ぬのはいやだという。そのはずだ、富岡はここで新しい女(岡田茉利子)に手を出すのだ。この温泉の場面では、森雅之は高峰秀子と二人で温泉に浸かったあと、岡田茉利子とも一緒に温泉に浸かる。その場面がなんともいい。

富岡が自分を捨てて他の女とねんごろになったので、ゆき子は仕方なく伊庭を頼り、富岡との間にできた子供を堕胎した後、伊庭の妾に収まる。伊庭は大日向教会とかいう名称のあやしげな新興宗教団体を立ち上げ、無知な信者から莫大な金を巻き上げて、俄成金になっていたのである。教祖になった山形は、圧倒的な迫力で信者たちを洗脳し、ざくざくと金を巻き上げるのである。

そこへ思いがけなく富岡が訪ねてくる。要件は金を借りることだった。妻が死んだが葬式を挙げる金がないというのだ。男の顔を見たゆき子は、最初は怒りの気持ちに囚われた。あんたのおかげで子どもを堕胎し、ひどい目にあったのに、あんたは別の女と浮かれていた。その女が殺されたのもあんたが亭主から無理に奪ったからだ。おせい(岡田茉利子)を殺したのはあんたよ、といって責めるのである。しかし相手の窮状を推し量って金は用立ててやった。

伊庭との生活がうとましくなったゆき子は、伊庭の金庫から現金30万円を盗んで遁走し、さる旅館に逗留して、そこへ富岡を呼び出す。事情を聴いた富岡はびっくりするが、この金はいかがわしい金だから、伊庭の方でもお上に訴え出るようなことはしないはずだとゆき子はいって、二人でどこかへ逃げようと持ちかける。いままで二人にとって障害になっていた富岡の妻が死に、ゆき子のライバルだったおせいも死んだ今、やっと二人が結婚できる条件がそろった。そうゆき子は考えたわけであろう。

しかし富岡は意外なことをいう。昔のツテを頼って仕事を見つけた。屋久島という国境の島で林業関係の仕事をすることになったというのである。だからもう君とは会えない。そう言われたゆき子は激しく動揺し、わたしも一緒に連れて行ってと哀願する、あんたに捨てられたら、わたしにはいくところがない、と。富岡は伊庭のもとに戻るようゆき子を説得するが、ゆき子は引き下がらない。富岡はついに折れて一緒に連れて行くことにする。

こうして二人の屋久島行と相なる。しかしすでに肺炎らしい重い病気にかかっていたゆき子は、道中困苦に耐え、最期には担架に乗せられて屋久島の寓居にたどり着く。この病気が二人の絆を深めるというのが、なんとも悲しい。絆の繋がりを確かめえたと思った時に、ゆき子は死んでしまうのだ。

映画のラストシーンがまた美しい。人払いをして二人きりになった富岡がゆき子に死に化粧を施す。するとゆき子の面影が目の前に立つ。白いワンピースを着た若いゆき子が安南のジャングルの中に立ってこちらを向き微笑んでいるのだ。泣かせるシーンと言うべきである。

なお、この映画では屋久島のことをさして国境の島と言っていた。敗戦後は沖縄のみならず奄美諸島もアメリカの施政権下にあったから、そんな言い方をしたのかもしれない。そこにも時代を感じさせるものがある。

とにかくこの映画は、成瀬の作品の中ではもっともスケールの大きいところを感じさせるものだ。









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