「ある」と「ない」

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存在と非存在は一対の対立概念であるが、それを日本語では「ある」と「ない」というように、異なった言葉で表す。一方、英語をはじめとした印欧語族の言葉では、存在は「 be 」、非存在は否定辞の「 not 」をつけて、「not be 」という具合に現す。漢字の場合には、「ある」は「在」とか「有」といい、「ない」は「無」とか「莫」とかいうほかに、否定辞「不」、「没」をつけて、「不在」あるいは「没有」という場合もある。

大野晋(日本語の水脈)によれば、存在には「動かずに場を占めること」と「起こる、生じること」という二通りの意味があるという。英語や漢字では、この二通りの意味が使い分けられているのだが、日本語の場合には、「ある」はもっぱら「起こる、生じる」の意味合いに使われてきたという。

「ある」の用例を古い文献に当たってみると、たとえば次のようなものが代表的な事例としてある。

  生(あ)れまさむ 御子のつぎつぎ 天の下知らし坐せと・・(万葉集1047)

この「ある」は出生を意味しているのだが、他の用例でも出生などの「起こる、生じる」意味合いで用いられるのが大部分だという。

また「ある」の類語である「あらはる」は、何もなかったところに、突然出現する、という意味であり、「あらは」とは、隠れていたものが突然現れることから、露骨であることを意味した。そこから「あらは」が裸を意味することもあった。

一方、存在の否定としての、日本語の「ない」には、「存在しない」という意味のほかに、「隠れて見えない」とか「小さすぎて見えない」という意味もある。このことから、人が死ぬことを、死んで見えなくなるというふうに考えて、「なき人」とか「なき後」とかいうようにもなった。

これに対して印欧語では、「not be 」は端的に存在の否定である。その存在にも、「場をしめること」と「生じること」の二つがあるから、「not be 」は、「その場にない(以前にはあったが、いまはない)」と、「そもそもこの世に出現していない」という二通りの意味で使われるわけである。

例えば英語には(there is no desk)というような言い方がある。これは直訳すると、「ない机がある」となる。そういう言い方は日本語にはない。日本語では、「ない机がある」というかわりに「机はない」という。どうしてこういう違いが生じるかといえば、英語などの印欧語では、非存在を存在に対立する(相対的な)概念と考えるからだと思われる。非存在もある種の存在の仕方なのだ。だからこそ、「ゼロ」をひとつの実体的な量として考える姿勢が生まれたわけである。日本語では、ゼロはただ「ない」のであって、それ以上に積極的な意義を有することはなかった。だから「ゼロ」に相当するヤマト言葉もない。

日本語でも、「行かない」、「咲かない」、「見ない」のように、英語の(not)と同じような機能を果たす言葉はある。これらに使われている「ない」は「なし」の「ない」とは違うと大野は言う。関東地方には古く打消しの助動詞として「なふ、なへ」というものがあり、それが今日の「行かない」等になったのであって、これは非存在を現す「ない」とは、別系統の言葉だというのだ。


関連サイト:日本語の語源 





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