原風景としての少年時代:魯迅「宮芝居」

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魯迅は「故郷」の中で、自分が少年時代を過ごした牧歌的な世界を懐かしく思い出してみたが、その懐かしい世界は、大人になった今では、もう二度と戻ることのできない遠い世界のこととして、記憶の彼方に消え去ってしまっていた。その消え去ってしまったはずの懐かしい世界を、追憶の中でもよいから体験しなおしてみたい。そんな思いから書かれたのだろうと、思わせるような作品がある。「宮芝居」である。

宮芝居とは、春祭りの頃に農村地帯で催される伝統芸能のようなものらしい。魯迅が少年時代を過ごした中国江南の農村地帯では、村をあげて芝居を招き、春祭りに合わせて芝居を楽しんだらしいのだ。

魯迅はもとより都会育ちであり、こんな村芝居とは無縁な生活を送っていたはずだが、ふとしたことから母親の実家がある村で、この宮芝居を見たことがあるのだった。この小説は、その折の思い出を懐かしい気持ちを込めて再現しているのである。

母親の実家がある村は戸数30戸足らずの川沿いの小さな村だが、魯迅の遊び相手になる子どもは沢山いたようだ。子どもたちは同じ年頃でも、「世代を比べてみると、少なくとも叔父と甥の関係になるか、中には祖父と孫の関係になる者も何人かいた」。というのも、この村は皆同じ祖先から生まれた親戚からなっており、姓もみな同じなのだった。

この村に滞在中、隣村で宮芝居が上演されると聞き、魯迅少年は子ども仲間と一緒にそれを見に行った。母親の実家の村は小さすぎて、独力では芝居をやれないので、毎年いくばくかの金を出して、隣村の催す宮芝居に便乗させてもらっていたのである。

子どもたちの一団は、船に乗って隣村まで行くことにした。中国の江南地方は、御存じのように水運が発達していて、船がもっともすぐれた輸送手段だったのである。

数里の道のりを、交代で櫓をこぎながら、船は飛ぶように進んでいく。隣村に着くと、芝居小屋は川に沿ってかけられており、見物人はみな船の上から芝居を見るのである。魯迅少年たちも、船首にかたまりあって、立ち回りを見物したが、期待していたトンボを見ることはできなかった。というのも、少年たちがやってきたときには、一日も終わろうとしている時刻であり、芝居見物の人数が減っていたので、役者たちも手を抜いていたようなのだ。

芝居を見終って船で帰る途中、子どもたちは腹が減ったので、川沿いの畑に上って豆を盗み、船の上で炒って食った。

翌日、子どもたちは、昨夜豆を盗んだ畑の持ち主の六一爺さんと出会った。魯迅少年はてっきり叱られるかと思ったのだったが、案に相違して、「迅さん、昨日の芝居は、おもしろうござんしたか」といった。面白かったと答えると、豆はうまかったか、と聞く。うまかった、と答えると、「六一爺さんはすっかり感激してしまって、親指をニュッと突き出して、得意になってまくしたてるのであった。『こりゃ、大きな町に育って、学問をしなさる方じゃによって、さすがにお目が高いわ・・・奥様の所にも届けて、味をみていただかにゃ』」

この爺さんを含めて、母親の村の人々は、みな善良な人間として描かれており、文盲ではあるが、心のしっかりした人として描かれている。こうした人たちこそ、中国人の一つの典型であり、自分はそんな人々と接することで、心が豊かになる、と魯迅は言いたいようなのである。

この小説は、あの時に食った豆の味を思い出しながら、次のように呟くところで終わっている。

「そうだ。あれから今日まで、私はほんとうに、あの晩のようなうまい豆を食べたことがないし・・また、あの晩のような面白い芝居を見たことがない」

少年時代の思い出というのは、誰にとっても心の原風景のようなものだ。だから、魯迅に限らず、いろんな作家がそれを描いている。日本人の作家の中では、井上靖の「しろばんば」などがあげられる。「しろばんば」は、伊豆の小さな温泉宿場を舞台に、少年少女たちが繰り広げる牧歌的な世界を描いたものだ。それを読むと、筆者などにも、なつかしいことが沢山思いあたる。


関連サイト:漢詩と中国文化 







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