「よむ」と「かく」:文字とことば

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「よむ」、「かく」という言葉は、どちらも文字の存在を前提としている。したがって、ある民族の中で文字というものが生まれてから後にできた言葉と考えることが出来る。文字が生まれるのは、言葉が生まれてからはるかに後のことであるから、「よむ」、「かく」という言葉は、どの民族の言語体系にあっても、比較的新しい言葉である。

これまで存在しなかった新しい事態が生まれるたびに、人類はそれに対応する新しい言葉を作ってきたわけだが、その場合に、その言葉をどのようにして作るのか。考えられる事態は二通りある。一つは、他の言葉との関連を断ち切って全く新しく作り出すこと。もう一つは、既存の事態との類似性に着目して、それに対応する既存の言葉を借用することである。人類の歴史上は、後者の場合が多かったと考えられる。

大野晋は、「読む」、「書く」に相当する言葉についても、多くの言語体系においては、既存の言葉を借用した例が多いとして、印欧語、漢語、日本語について、語源学的な考察を行っている。(日本語の水脈)

まず、「よむ」から。フランス語、イタリア語、スペイン語などの祖先であるラテン語では、「読む」はlegere であるが、これはもともと、「取り上げる、集める」という意味だそうだ。これは字を読むという行為が、「書かれた文字を一つ一つ取り集めて一つの語を組み立てて、理解することであり、あるいは、書かれた語の意味を集めて文として、理解することだからだろうと思われる」と大野は推測する。ちょっとわかりづらい説明であるが、要するにラテン語を話す人々は、「読む」という行為と、「集める」という行為との間に、密接なアナロジーを認めたということだろう。

英語の「読む read」は古代ゲルマン語に起源をもっているそうだが、それはもともと「解釈する」という行為を表現する言葉であった。

一方、リトアニア語やチェコ語においては、「よむ」という言葉は、「数える」という言葉を借用したものだという。

このように、印欧語系の言語にあっては、「よむ」を意味する言葉は、「集める」、「解釈する」、「数える」などの言葉を借用したというふうにまとめることが出来る。

漢語についてはどうか。漢字の「讀」は、「逗」と同じ意味の言葉であり、「じっと立ち止まる」ことを意味した。立ち止まるとは、文字のひとつひとつに区切れをつけるということである。それ故古代の中国人にとっては、文字を読む行為は、一つ一つの言葉の音節に注意しながら、言葉の意味を考えるということであったらしい。

日本語の「よむ」は「つくよみ」の「よむ」と関連があると大野はいう。月は満ちかけのあるもので、一晩ごとに大きさを変えていき、一定の周期で一巡する。したがって日の進行具合は、月の進み具合を数えることによって知ることが出来る。ここから「月をよむ」という言葉が生まれたわけだが、この「よむ」が、文字を読むの「よむ」に転用されたのは、「数える」ことのアナロジーからだと大野は言っている。リトアニア語やチェコ語の場合と同じだといいたいようなのだが、そのへんの推論はちょっと乱暴かもしれない。

次に、「かく」。ラテン語では「書く」をscribere というが、これはもともと「引っ掻く」という意味であった。つまり、粘土などに文字を書く行為が、「引っ掻く」という行為を連想させたのであろう。ゲルマン語系やサンスクリット語、ギリシャ語などにおいても、「かく」は「引っ掻く」という言葉を借用しているという。

漢字の「書」は、「筆」と「者」の合成語だそうだが、それは筆で文字を定着させる行為を現したものである。このように漢語では、既存の言葉をそのまま借用するのではなく、既存の言葉を活用しながら、新しい言葉を生み出したわけだ。

日本語の「かく」も、印欧語と同じく「引っ掻く」を借用したものだと大野はいう。日本語の場合には、文字は漢字をそのまま借用したわけだが、その漢字を書くという行為を、「引っ掻く=かく」という言葉で代用させたわけである。

文字ではなく、絵をかく行為は、「えがく」という。この「えがく」が「かく」の派生形であるのか、それとも「えがく」がもともとあって、そこから「え」が脱落して「かく」になったのか。その辺のところは実証できていない。おそらく「かく」がまずあって、そこから「えがく」になったのだろう。


関連サイト:日本語の語源 





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