法隆寺の伽藍:日本の美術

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(法隆寺遠景、平凡社刊「日本の美術4」)

現存する法隆寺の伽藍は、西暦670年の火災による消失の後、7世紀の末に再建されたものである。原法隆寺の北側に隣接して再建されたが、その際に、地形上の制約から、原法隆寺のように一直線上に伽藍群を配置することができなかったために、現在のような配置になったのだとする説があるが、本当のことはわかっていない。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

7世紀の末といえば白鳳時代である。だから現存の法隆寺は白鳳建築ということになるが、それと飛鳥建築たる原法隆寺との間にどのような異同があるのか、詳しいことはわからない。原法隆寺についての建築学的な資料がほとんどないに等しいからだ。

それでも、法隆寺の再建にあたったのが、百済からやってきて原法隆寺の建設に携わった人々の子孫だということは分かっている。それ故、両者の間には何らかの共通点はあるのに違いない。

伽藍配置は、前稿で述べたように、中門とその反対側を結ぶ矩形の回廊で空間を仕切り、その空間の中に、左手に塔を、右手に金堂を、並べるという形をとっている。

回廊で囲まれた内部空間は、一面に白砂が敷かれているほかは、若干の樹木があるのみで、余計な装飾を省いている。その空間は広すぎもせず、また狭すぎもせず、装飾がないせいで高度に抽象的な印象を与える。

五重の塔は、まっすぐ上に向かって伸びているというよりは、巨大な瓦屋根が積み重なっているような印象を与える。軒のもつ水平のイメージがそのような印象を醸し出すのだと思われる。これはだから、西洋のゴシックの塔のように上に向かって垂直に伸びていくイメージではなく、地上に強く結びついたイメージである。五重の塔、あるいはその変形としての三重塔は、以後この法隆寺のイメージを原型として、作り続けられていった。

金堂は二層の建築物だが、単純な二階建てというのではなく、巨大な屋根が積み重なっているように見えるのは、五重の塔と同様である。このように、屋根を建物のポイントと考える傾向は、日本の建築の大きな特徴であるが、それが法隆寺に遡る古い起源のものだということを、改めて感じさせられる。百済から来た人々の美意識に根差したものなのか、あるいは日本固有の美意識を反映したものなのか、については、比較文化の研究対象となるであろう。


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