「餃子の王将」が同情されるわけ

| コメント(0)
「餃子の王将」の社長が何者かによって射殺された事件を巡って、日頃から王将を利用している客を中心に同情と励ましの声が寄せられているそうだ。何でもない市井のエピソードのようだが、それにしても何故、一飲食業者がこれほどまでに、人々の関心を呼ぶのか。筆者なりに心当たりがあるので、つまらないおせっかいかもしれないが、紹介しておきたい。

あの3.11のカタストローフに筆者は横浜で遭遇した。日頃懇意にしている人々(筆者を含めていづれも千葉在住計4人)と三溪園に遊んだ帰り、中華街で食事をしている最中にすさまじい揺れに見舞われたのであった。帰宅難民になった我々は、何とか知恵を振り絞りながら東京へと舞い戻ってきたが、他の人たちの身の始末がついたところで、筆者は深夜に動き出した地下鉄に乗って本八幡まで移動した。しかしそれから先がどうにもならない。筆者の家は船橋市の北の郊外にあるので、本八幡からは歩けない距離ではないが、足に自信がないのでぐずぐずしているうちに、駅近くの餃子屋の灯りがついているのが眼に入った。それが「餃子の王将」の本八幡支店だったわけだ。

暖をとろうと思って中に入ると、店員が丁寧な言葉つきで、「もう営業は終わってしまいましたが、よろしかったら中に入って朝までお休みになって結構です」という。見ると筆者のように途方にくれた人々が、店の中に沢山いる。筆者は一安心した気持ちになって、そこで朝まで過ごし、明るくなってから家に向かって歩き出した次第だった。

こんなことはなかなかあるものではないと思う。実際筆者らは、東京へ戻った後で一緒に泊れるホテルを探したが、宿泊はおろかロビーで休むことも許されなかった。そんな時にこの店は困った人に暖かい手を差し伸べたわけである。おそらく日頃から、経営者からそのように教育されていたのであろう。その経営者が先ごろ殺された社長なのであろう。そうだとすれば、今回大勢の人々が、彼の冥福を祈る行動に出たというのも納得できる。







コメントする

アーカイブ