瀬戸内寂聴さんの死に支度

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読書誌「図書」の最新号(2014年1月号)に、瀬戸内寂聴さんの「これまでの100年、これからの100年」と題する講演記録が載っていて、興味深く読んだ。というのも冒頭で寂聴さんは、「毎日毎日が私にとっては、まさに死に支度ということです」と宣言されているからだ。寂聴さんは今年91歳になられるということなので、失礼な言い方かもしれないが、いつ往生しても(つまり死んでも)おかしくない年だ。凡俗はそれでも、自分はまだ簡単には死なないぞと思うものだが、寂聴さんの場合にはいつ死んでもよいように心の準備ができているという。これを俗に「お迎えの来るのを待っています」ともいうが、こういう心境になれるということは、ある意味素晴らしいことはなかろうか。

寂聴さんは聴衆の皆さんにむかって、「皆さんにお会いするのはこれが最後と思います。そう思ってまいりました」という。最後にあたって寂聴さんが聴衆の皆さんに向かって勧めたことといえば、想像力の芽を育てて欲しいということだった。想像するというのは、相手が何を思っているか想像力をはたらかせることで、これは思いやりであるともいう。思いやりと言うのは愛である。つまり想像力=思いやり=愛、そういうものだと思う、と寂聴さんは言う。

想像力を養うためには、想像力に栄養を与えることが必要ですとも、寂聴さんは言う。そしてその想像力の栄養とは文化なんですと言う。人は芸術やら読書を通じて、文化の何ものたるかを会得し、そのことを通じて想像力を育むことが出来る。だから文化を大事にしてもらいたい。そういって寂聴さんは、金にならないという理由で文化を軽視する政治家を厳しく批判してもいる。

91年にわたるご自身の人生を振り返って寂聴さんは、「生きるということは愛することですね」と総括しておられる。愛することは若い時のほうがよいが、年をとってもできる、という。また、生きることは恋と革命だともいう。何故ここで革命が出て来るのか、よくわからないが、どうも常に自分を乗り越えていくということらしい。そのことなら筆者にも納得できる。人は絶えず自分を乗り越えて先へ進んでいかねばならない。自分自身に後れを取るようでは、もはや生きる意味がない、ということだろうか。もしそうなら、寂聴さんは仏弟子としては珍しい進歩主義者であるようだ。

「愛する」こととの関連で、今の若い人たちの恋愛について触れ、彼ら或いは彼女らが、恋を相手に打ち明けることを「告白する」というのが自分にはわからないと寂聴さんは言っている。寂聴さんが若かった時代には、「告白」というと、何か悪いことをしてきた人がそれをうちあけるというようなイメージだったのに、今の人は恋を語ることを「告白する」、あるいは短縮して「告る」という。それが自分にはどうしてもなじめないと匙を投げておられる。

筆者に関していえば、「告白」という言葉は、犯罪を白状する際にも、愛を打ち明ける際にも、どちらのケースで使われても違和感を感じない。読者は如何だろうか。

最期に寂聴さんは、「文化が死んでいくならその国は滅びます。皆さん、どうか日本の文化を守って下さい」と呼びかけて公演を締めくくっていた。筆者も及ばずながら努力してみたいと思います。







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