素晴らしき日曜日:黒沢明の世界

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黒沢明が戦後間もなく作ったいくつかの作品は、ヴィットリオ・デ・シーカなどイタリアのネオ・レアリズモの作品とよく比較される。たしかに両者ともに敗戦国の苦い現実を赤裸々に描き出している。生活基盤を失って途方に暮れる人々や、破壊されて無残な姿をさらす街の風景、そういったものをありのままに映し出すところが非常によく似ている。しかし、ネオ・レアリズモと黒沢とではひとつ違ったところがある。デ・シーカらの映画には、世の中の不条理を告発する社会的な視点が感じられるのに対して、黒沢の映画にはそういう告発的なところはない。彼は告発的な動機から映画を作ったのではなく、見る人々に感動して欲しいという思いから映画を作った。だがそれらの映画はたまたま戦後の焼跡を舞台に展開し、その焼跡で生きる人々の懸命な表情を映し出していた、ということなのだ。

黒沢の戦後第一作たる「わが青春に悔いなし」は、滝川事件を題材にした作品で、多分に告発的なところがあった。これは戦前に起きた知識人の迫害を題材にしたもので、したがって戦後の世相とは関係がない。歴史上の出来事を後になって取り上げたというものだ。しかし、その中に告発的な視点を盛り込んだために、映画としては面白くないものになった。黒沢はそこのところに気が付いたのだろう。戦後二作目の「素晴らしき日曜日」においては、告発的な視点を完全に取り除いて、純粋に男女の愛の物語として描いた。そのために映画としては成功した。映画として成功しながら、それが戦後の焼跡とそこに生きる人々を映し出していたという点で、戦後の日本の実像についての証言のような意味合いも持つようもなった。ということは、期せずして社会派映画としての面をも兼ね備えるようになったということだ。

映画に限らず芸術というものは、イデオロギーや思想を持ち込むとつまらぬものになる。かといって全く思想性を感じさせない作品は芸術としても浅墓なものになる。これはなかなか難しいディレンマだが、優れた芸術というものは、思想を前面に押し出さず、しかも深い思想性を感じさせるものなのだといえる。

「すばらしき日曜日」が公開されたのは1947年だから、文字通り敗戦直後といってもよい。東京の街は廃墟も同然で、至る所焼跡があった。すさまじいインフレが吹き荒れ人々の生活基盤も破壊されていた。とにかく明日に希望が持てない時代だったわけだ。そんな時代に一組の男女が明日への希望を信じて懸命に生きて行こうとする、そのけなげな姿をこの映画は描いている。このような男女はいつの時代にもいるものだし、普通の時代だったら普通に愛を成就させて幸せになったに違いないところが、たまたま困難な時代に直面したために、様々な困難に見舞われる。それでもこの男女はその困難を一つ一つ乗り越えながら、明日へと希望をつないでいく。その姿が感動的なのだ。その感動と重なり合うようにして、戦後の雑然とした世相が映し出される。すると、我々観客は、個人と時代との相関について、思わず目を向けさせられるのである。

そんなわけで、この映画は極めて平凡な男女のささやかなデートの一日を描く。それがどのようにして素晴らしいデートになりえたか、観客と一緒に考えてみようというのが、「素晴らしき日曜日」という題名の隠された意図なのであろう。黒沢はその意図を表には出していない。だが、観客はなんとなくそれらしきものを感じる。それはヒューマニズムのようなものなのかもしれない。とにかく観客はそこの所で深い感動を覚える。この映画が芸術作品として優れているのは、そこの所なのだと思う。

ある日曜日の朝、若い男女が街角で待ち合わせをする。男(沼崎勲)は金が無くて煙草も買えないのだろう、路上に落ちている吸殻を拾って吸おうとする。女(中北千枝子)は約束の時間に遅れたので大急ぎで待ち合わせ場所に駈けていく。そのあわただしそうな姿が、これから始まるに違いない素晴らしき一日への期待感に溢れているところを感じさせる。そしてやっと待ち合わせ場所にやってきた女は、シケモクを咥えようとする男を見て、思わず男の手を叩いてしまう。そんなみっともない真似はしないで、と言う表情を浮かべながら。

この出だしが物語っているように、この二人は貧しい若者たちなのだ。これから楽しいデートをしようというのに、二人合わせて35円の小遣しかもっていない。これでは食事をするのもままならない。男がそのことについてこぼすと、女が男を励ます。この映画では女がいつも男を励ましているのだ。それに対して男は、「おい」といって女に呼びかけ、偉そうな顔をしたがる。その頃の男はみなそうだったのだが。

女がリードする形で二人は住宅展示場のモデル住宅を見物する。結婚するためには家がなければならない。一刻も早く家を見つけて二人で生活したい。それが彼らの夢なのだ。ところがその夢はなかなか現実にはなりそうもない。貧乏な彼らには一軒家を手に入れるなどは夢の又夢、かなわぬ夢なのだ。しかしそんな夢でも女は見たがる。底の破れた靴を履きながら、女がそんな夢ばかり見るので男は冷やかす。夢では腹は膨れないと。すると女は言い返す、夢が無かったら生きていけないと。たぶんこの時代の若い女性たちはみなそう思っていたに違いないのだ。

次いでアパートを見にゆくが、六畳一間のちっぽけな部屋でも家賃が600円だといわれてがっかりする。二人の収入ではそんなぼろアパートにも住めないのだ。がっかりした二人は気を取り直そうと、子どもたちの野球ごっこに加わったり、キャバレーを経営している友人を訪ねて体よくおっぱらわれたりした後、上野の山と見られる小高い丘の上で、女が持参したおにぎりを食う。このシーンで浮浪児が出てくる。その浮浪児は哀れさというより、ふてぶてしさを感じさせる。ふてぶてしくなければ生きてはいけないはずだ。当時の東京の街にはこうした浮浪児が溢れていたと思われるが、黒沢は彼らの存在にさらりと触れるだけで、深く追及する姿勢は見せない。

上野動物園でしばし過ごした後、女が音楽会に行きたいといいだす。日比谷公会堂でシューベルトの未完成交響楽をやっているというポスターが目についたのだ。普通席が一人10円だ。まだ20円残っているから入れる。そこで二人は振り出した雨の中を、上野から日比谷まで急いで駆け付ける。二人が並んで駆けていくその様子がなんともいえず微笑ましい。黒沢のうまさはこういうところにあると言ってよい。こういう演出は、溝口や小津にはないものだ。

しかし日比谷公会堂にはダフ屋が群がっていて、普通席券を買い占めている。奴らはタイミングを見てその券を15円で売りつけようというのだ。今のダフ屋は別のルートでチケットを入手し、定価より安く売る者もいるようだが、戦後の混乱期には、こんなこともまかり通っていたのだろう。

結局チケットが買えなかった男はダフ屋に定価通り売れとせまるが、ダフ屋は無論応じない。そこで喧嘩となり、男はダフ屋のグループに叩きのめされる。

こうして二人は打ちのめされた気持ちで男の下宿に転がり込んでくる。このシーンはこの映画の一つのハイライトをなす部分だ。男は女に向かってセックスしようと仄めかす。それを感じとった女が拒絶の意思を伝える。この時代の若い女性にとっては、結婚するまでは処女であることが当然だったのである。結局男はそんな女の意思を尊重してあきらめる。こうして二人が仲直りをする頃に雨が止んで青空が広がる。デートをやり直すには十分な天気だ。

二人はまず喫茶店に入り、コーヒーとケーキを一つずつ注文するが、請求書を見て驚く。20円だとばかり思っていたのが30円だというのだ。コーヒーとケーキはたしかに5円ずつでそれだけなら20円だが、それにミルクを加えるとその料金が別に5円ずつかかるというのだ。男は腹を立てるが喧嘩しても始まらぬと思って、不足する部分は来ていたコートを質草において店を出る。

さて、二人の夢は、結婚後二人で喫茶店を経営するということだった。そこで二人は、自分たちの喫茶店は、さっきのようなまずいコーヒーを出して、高い値段を吹っ掛けるような店ではなく。おいしいコーヒーを安く提供するのだと息巻く。そういいながら二人は、焼跡の一角に立ち入り、そこで喫茶店の真似事をする。あたかもそこに彼らの喫茶店が存在し、その中でマスターになった男がお客の女にコーヒーをサービスしているところを、まじめな顔つきで演じるのだ。このシーンもまた忘れがたい印象を残すところだ。

ついで二人は日比谷の野外音楽堂に入る。先ほどは金が無くて未完成交響楽を聞けなかったけれど、想像の中でなら聞くことが出来る。だから想像力を働かせてごらん。君が想像している間に僕が指揮者になって指揮を取ろう、楽団員たちは皆透明人間だ。どうだい、聞こえるかい、というと、女は聞こえると答える。その言葉に励まされて、男は壇上に上がってタクトを振る真似を始める。しかしタクトを振ろうとするたびに、風が舞い上がり、意地悪な音を立てて、男の立てようとする音楽の音を邪魔する。男はそれにくじけて中々先へと進めない。

そこで女が立ち上がって、男の横に並ぶと、観客に向かって叫ぶように話しかける。皆さんの温かい心で、励ましてやってください。貧しい人々に声援を贈ってやってください。拍手を贈ってやってください。お願いします。

すると交響楽の音がどこからともなく聞こえてくるのだ。それに励まされるように男はタクトを振る。この部分がこの映画の圧巻をなすところだ。未完成交響楽の第一楽章がまるまる聞かせられる。映画の中の時間としては異例に長い場面だ。その場面を通じて、二人の表情が入れ代わり立ち代わり映し出される。人間の表情だけで映画が成り立つという驚くべき部分だ。

こうして感情が次第に高まっていき、二人は曲の終わったところで強く抱き合うのだ。

このように、この映画は若い男女の他愛ない愛の物語である。その物語の中に、戦後の世相がちらりと出てくる。しかしそのちらりが、何とも言えず迫力を感じさせる。たとえばキャバレーのシーンでは、女連れで遊びにやって来る金のある連中と、そのキャバレーで女給として働いている女の、鮮やかな対比ぶりなど、実に心憎い演出をしている。

こういうわけでこの映画は、黒沢映画の原点ともいえる作品だ。









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