天平時代の美術

| コメント(0)
710(和同三)年の平城遷都から784(延暦三)年の長岡京への遷都を経て794(延暦十三)年の平安遷都に至るまでの80数年間を、美術史上では天平時代と呼ぶ。聖武天皇治世下の天平時代(729-749)に花開いた華麗な仏教美術を以てこの時代を代表させた形である。

天平時代の仏教美術の最大の特徴は唐の影響が大きいということである。度々派遣された遣唐使(奈良時代に入唐に成功した遣唐使は六次)が大量の情報や美術品をもたらし、それらが日本の仏教美術に直接影響を与えた。唐の仏教美術の特徴は現世的・人間的であることで、深い精神性を特徴とする北魏の仏教美術とは著しい対照をなしているが、日本人にとっては、こちらの方がなじみやすかったようである。

唐の仏教美術はまた、国際性が豊かだったという特徴がある。世界国家となった唐はシルクロードを通じて西域と結びつき、インドとの交流も盛んであった。したがって唐時代の彫刻などには、西域やインドの影響も伺われる。そうした国際色豊かな文化が、遣唐使を通じて天平時代の日本にも伝わってきたわけである。

平城京では、遷都直後から、飛鳥地方の大寺(薬師寺や大安寺など)の移転や藤原氏による興福寺の造営が行なわれたが、天平時代に入ると諸国に国分寺の制度が定められたほか、平城京に国分総寺及び総尼寺として、東大寺と法華寺が造営され、それらに収めるための仏像や美術品が大量に作られた。この時代は国家が中心になって仏教美術の振興にあたっていたわけである。

天平仏は唐の様式に従うということのほかに、木造や銅像に加え、乾漆や塑像の技法を駆使する点でも前の時代と違う。乾漆や塑像は白鳳時代の末期になって現れたのであるが、天平時代に入ると全面的に開花し、平安時代には消滅する。したがって天平時代に特徴的な様式といってもよい。

天平時代における仏教美術の制作の担い手は、大規模な官営工房であった。建築、彫刻、絵画、写経、工芸品などの分野ごとに造営のための組織が整備され、大量の技術者が製作に従事した。奈良時代の前期には、光明皇后直属の皇后宮職として整備され、金光明寺造仏所を経て天平時代盛期には造東大寺司となり、東大寺大仏の制作には述べ50万人が動員されたという。

制作に従事した技術者たちは、唐からもたらされる仏教美術をいち早く吸収し、高水準の技術を駆使して製作にあたった。しかし、これらの官営工房は、長岡遷都以降は活躍の場がなくなり、やがて(789年)廃止の憂き目にあった。


関連サイト:日本の美術 






コメントする

アーカイブ