生きる:黒沢明の世界

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黒沢明には時折、ヒューマニズムに目覚めたような映画を作る癖があった。もっともそれらの映画が、映画として成功することはまれだった。滝川事件に題材をとった「わが青春に悔いなし」、医者の良心を描いた「静かなる決闘」、そしてドストエフスキーのヒューマニズムの傑作小説「白痴」の映画化、といった一連の作品を見ると、観念性が先走って、上滑りしている、というふうに感じるのは、筆者のみではないだろう。そんな中で、ひとつだけ例外的な作品がある。「生きる」だ。この映画は、黒沢のヒューマニズムへの志向が前面に現れた、それこそ「ヒューマン」な作品だと言ってよいのだが、観念性に陥らず、人間の自然な生き方を描いたものとして、見る者の心に素直に訴えかけてくる。その意味で、日本のヒューマニズム映画の傑作といってよい。

映画の筋は至って単純だ。胃がんのために余命わずかと覚った初老の男が、人生最後の日々を人間らしく生きたい、そう思って自分の力を絞りだし、その挙句自分なりに納得できる結果を出すことが出来て、小さな喜びを噛みしめながら死んでいく、というものだ。これがヒューマニズムの映画と言えるのは、一人の人間のより良い人生を生きたいという意欲を描いているからだろう。どんな人間にとっても、生きたいという意欲は尊いものだ。その尊さが、この映画に輝きをもたらしているのだろう。

映画は大きく二つの部分からなる。前の部分は、自分が胃がんであることを覚って絶望する男の姿を描いている。この部分が全体の三分の二を占める。後の部分は、既に死んでいる男の通夜に集まった同僚たちの回想という形で描いている。その回想のなかで、男が自分に課した人生最後の仕事に向かって献身的な努力をする姿があぶりだされてくる。その必死な姿に接した同僚たちは、みな男の生き方に感動する。普段は人間的な感動とは無縁な人間たちと思われていた男たちが、一人の男の生きざまに接して感動する。それは何故なのか。それを映画は、正面から説明するのではなく、観客一人ひとりに考えてもらうように、問題を投げかけているというようなやり方を取って問いかけている。その問いかけの仕方が、この映画を芸術作品として成功させた最大の要因だと思う。

このように、この映画は前段と後段とを違う視点から描くことによって、独特の重層性を演出できている。最初から最後まで男の視点だけに寄り添って、同時進行的に描いていったのでは、あるいはテーマの重さに耐えられなかったかもしれない。そうなれば映画は男の絶望に全面的に彩られることになって、何とも陰湿な雰囲気に落ちこんでしまっただろう。後段を第三者の目から語らせることによって、男の生き方を客観的に見ることが出来るわけだ。

男はとある市役所の課長ということになっている。つまりしがない役人だ。しがない役人というのは、人間の中でも最も人間らしさに欠けた人種だ、というのが当時の日本人の受け取り方だったらしく、この映画の中でも、この男は市役所に勤めて30年近くになるが、その間、人間として生きてきたことはなく、したがって実際には生きながらにして死んでいるのも同然なのだ、という風にアナウンスされる。その事実上死んだも同然の男が、本当に死ぬ羽目になる。ところがその期に臨んで初めて人間的に生きたいと欲し、事実その願いどおりに人間らしい生き方をして死んでいった。これはある意味逆説ではないのか。しかしその逆説が実現した。それは一人の男の強い意志、つまり生きんとする強烈な意思が、彼に輝きをもたらしたからなのである。そう映画はいう。つまりこの映画は、一人の男のヒューマンな死に方を描いたものなのだ。

今日においては、ガンはタブーではなくなっているが、この映画の時代にはタブーだった。医者は患者にがんであることを隠していたばかりか、場合によっては家族にさえも知らせなかった。だから多くのがん患者は、わけもわからないままに、痛みや疑念に苦しみながら死んでいったのである。この映画の中でも、志村喬演じるところの初老の課長は、医者からはただの胃潰瘍だといわれただけだ。それをがんだと悟るのは、自分自身のカンのようなものによってだ。映画の冒頭に渡辺篤演じるところの患者仲間が、胃がんというものについて講釈を垂れる場面があるが、事態がその講釈通りに進んでいくので、課長はすっかり観念してしまったというわけなのだ。

こうして、自分の命が幾ばくもないことを覚った課長は、人生最後の日々をどう過ごしてよいかわからずに絶望する。映画の前段は、この男の絶望する日々を描き出す。まず伊藤雄之助演じる小説家なる者が出てきて、課長を遊びの世界にいざなう。遊びにうつつを抜かすことによって、つらい現実を忘れようというのだ。しかしいくら遊んでいても、その遊びに夢中になれない。死が迫っているというのに、こんなことで時間をつぶしていていいのか。そんな自責の念が働くからだろう。

次いで、市役所で自分の職場に非常勤職員として働いている若い女性と交際するようになる。小田切みき演じるこの女性は、多少足りないところがあるが、なかなかチャーミングな女性として描かれている。性格もよい。こんな若い女性と一緒にいると、人生の辛いことなど悉く忘れることが出来る。と言うわけで課長は、死ぬまでこの女性と一緒にいたいと思うようになる。ところが女性の方では、そのうち課長が鬱陶しくなる。そこで課長に向かって、もうつきまとわないでくれと、宣言する。そのうえで、わたしが市役所をやめて今の仕事に就いてから、やっと人間らしい仕事ができるようになった、それはおもちゃを作る仕事、おもちゃを作っていると、世界中の子供たちと仲良しになれるような気がする、あなたも何か作る仕事をしなさいよ、そういって課長に発破をかけるのだ。

彼女に発破をかけられた課長は俄然目覚める。彼もまた彼女のように何かを作ることに自分の余生を捧げたいと決心するのだ。その仕事とは、小さな公園を作る事だった。この公園の建設については、地元の住民たちが何度も市役所に請願していたのだったが、その度に市役所の連中にたらいまわしされて、相手にしてもらえなかった。この課長自身も、住民たちをたらいまわしにした一人だったのである。そんなイワクのある公園を、なんとかして作ってやりたい。その過程で自分のできる限りのことはやってみたい。そんな情熱に駆られた課長は、市役所内部のセクショナリズムを打破して、公園建設を実現していく。しかもたった五か月という短い期間で。

この公園建設にかかわるエピソードはすべて、課長の通夜に集まった市役所の同僚たちの回想という形で語られる。みなそれぞれに、自分の立場があるから、最初の方は自分に都合の良い仕方で回想している。課長ばかりが格好良くなると、それに比例して他の連中が格好悪くなくからだ。なかでも一番格好悪いのは市役所の助役(中村伸郎)だ。この男は公園建設を率先して妨害していながら、いざそれが出来上がって地元の人々に喜ばれると、あたかも自分こそがその最大の功労者であるかのような顔をする(よくある話だ)。それを見せられた役所の役人どもは、それに対して何もいえない。ごもっともとゴマをするだけだ。この辺のところは、小役人たちのイギタナイ習性が露骨に描かれている。

だが回想が進むにつれて、事実そのものの持つ重みに引きずられるようにして、真相が明らかになってくる。その真相とは、この課長がいかにこの仕事に情熱を以てあたっていたかということだった。最後に警察官が通夜の席に現れて、課長の死ぬ直前の様子を話して聞かせる。課長は公園のブランコに乗って、ひびきわたるような声で歌を歌い、その口もとには微笑みが浮かんでいたというのである。

こんなわけで、映画は前段では課長の絶望を描き、後段では他者の目から見た課長の最後の日々を描いているわけだが、その視点の切変わりによって、映画には独特の重層性が生じている。その重層性が、人間のヒューマンな生き方を、感情的にではなく、客観的にあぶりだすことに成功している。そんなふうに受け取れるのである。

なお、映画の最後の部分で、志村喬の後任として課長になった係長(藤原釜足)が、陳情におとずれた市民をたらいまわしにするシーンが、わざとらしく出てくる。役人というものは所詮こんなものなのだ。志村喬の映じた課長のような例は現実にはありえないのであり、現実の役所というものは、こんなものなのだ、ということを、黒沢は言いたかったのだろうか。








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