天平時代後期の仏像1:東大寺大仏

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(東大寺大仏、銅像、高さ1619cm)

東大寺の大仏(盧舎那仏)は、天平十五(743)年に聖武天皇の詔勅によって造営の準備が始められ、様々な段階を踏んで、天平勝宝四(752)年に、全体の完成を前にして開眼供養が行われた。台座連弁や光背も含めて完全な形になったのは宝亀二(771)年のことである。大仏の造営に携わったのは、造東大寺司と称される官営の専門家集団であり、従事した工人としては、大仏師の国中連公麻呂、大鋳師の高市連大国、大工の猪名部百世などが知られている。

この大仏は奈良時代における日本の王朝の権威を象徴するものとして威厳を誇ったが、創建当時の姿を今日にとどめているわけではない。まず、治承四(1180)年に平重衡の乱の兵火で頭部や両手などが焼け落ち、胴体や台座の一部も損傷した。これらは、文治、建久頃(1185-1198)に俊乗坊重源が勧進職になって補修された。

ついで、永禄十(1567)年に松永久秀の兵火によって、再び頭部などが焼け落ちた。この時には、薄い銅板を張りつけただけの仮の補修が施されたが、元禄五(1692)年頃から、竜松院公慶によって現在の形に作り直された。

こんな経緯から、この大仏には創建当時の面影がまったく残っていないかと言うと、そうではない。台座の連弁は天平時代のものがそのまま残っているとされるものであるが、そこに描かれた盧舎那仏像は、東大寺大仏の姿を描きなおしたものと考えられる。その盧舎那仏の姿を見ると、現存の大仏の姿と同じなのである。おそらく、修復はこの絵などを参照しながら、なるべく原像に近いものにしようと考慮されたと思われる。

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