用心棒:黒沢明の世界

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黒沢明には暴力礼賛的な傾向があるが、「用心棒」はそうした傾向がもっとも露骨に現れた作品である。しかもただの暴力礼賛ではない、暴力は暴力でも人間的でかつ正しい暴力でなければならない。正しい暴力と言うのが形容矛盾に聞こえるのであれば、うっとりするような力と言い換えてもよい。「用心棒」は、スーパーヒーローによるうっとりするような力の発現を、それこそうっとりするような仕方で描いた作品だといえる。

暴力の中には非人間的だといわれる暴力がある。そうした暴力が人間性に反していると感じられるのは、暴力を振るう者と暴力を振るわれる者との間に、なにかが介在するためである。たとえば距離。西部劇の中では拳銃を持った男たちが互いに殺し合うが、普通は殺し合う人間たちの間に距離があるために、その殺し合いはどこか絵空事のように映る。また拳銃は、武器のなかでも距離を前提としていることで、人間の直接的な触れ合いを排除する。拳銃を撃ちあう者は、相手の身体に直接暴力を加えるわけではなく、弾丸というものをつうじて、遠回しに加えるに過ぎない。相手を殺すのは自分ではなく、弾丸なのだ。

それに比べて、「用心棒」の中での暴力は、男たちが身体を密着させながら振るわれる。そこでは人間が直接他の人間に暴力を加える。人間同士の間に距離がない。また拳銃と違って日本刀は、身体の延長として、身体の一部のように扱われる。だから、日本刀で相手を切るというのは、二重の意味で人間的な暴力と言える。それは人間による、きわめて人間的な力の行使なのだ。

その人間的な暴力を振るう者は、理想化されたスーパーヒーローとしての素浪人である。黒沢は人間のひとつの理想形としてのヒーローにこだわるところがあり、「隠し砦の三悪人」と「悪い奴ほどよく眠る」の中で、そんなヒーロー像に一定の形を与えていたのであったが、「用心棒」ではそれを、極限の形で示した、といえる。この映画は、理想形としてのヒーローによる、極めて人間的な暴力を、うっとりとするような視点から描いたものなのである。

スーパーヒーローの暴力をうっとりと描くのが趣旨だから、筋とかテーマとかモチーフとかいうものは問題ではない。また多少荒唐無稽であってもよい。実際この映画は、多少どころかかなり荒唐無稽である。舞台設定が荒唐無稽であるし、出来事の進行も荒唐無稽である。だいたいこの映画には、暴力を振るう場面以外のいなかるシーンも出てこない。すべてのシーンが暴力を描いているか、或は暴力が振るわれるに至るプロセスを描いているかのどちらかなのである。世の中が暴力だけでは説明できないとすれば、この映画はまったく説明のできない映画、というか、一切の説明を拒む映画なのである。とにかくそこには暴力が、それもただ暴力だけがある。

こうした意味で、この映画は世界中の暴力映画に広範で深刻な影響を与えた。この映画によって、暴力の人間的な側面が見直されたのである。この映画以降、暴力を描き出す場面は一層残酷で凄惨なものになった。残酷とか凄惨とかいったものは人間性というものの本質的な要素なのである。

三船敏郎という俳優は、人間性の暴力的な側面を演じることでは理想的なキャラクターだ。彼の顔以上に表情豊かな顔は世界中を探してもないといってよい。どこからそんな表情が生まれて来るのか。とにかくそういう豊かな表情でなければ、人間性が持つ暴力的な側面を的確に表現することはできない。彼の表情や身体の動きを通じて現れる暴力は、まさしく人間性を感じさせる暴力だ。人間的な暴力なのである。

脇役の中では東野栄次郎と渡辺篤が存在感を示していた。この二人は、黒沢映画の常連として、数多く端役を勤めて来たが、この映画の中では準主役と言ってよいような役回りを演じていた。特に東野栄次郎の存在感が大きい。いわゆる東野栄次郎らしさというものがあるとされるが、その「らしさ」はこの映画で確立されたのではないか。

最期の場面が印象的だ。ピストルを持った仲代達也に刀と包丁を持った三船敏郎が向かっていく。飛び道具と日本刀の戦いだ。普通なら飛び道具が勝つはずだが、この戦いでは刀と包丁が勝つ。その勝ち方があいかわらず荒唐無稽なのだが、そんなことはどうでもよいのだ。刀という人間的な道具がピストルという非人間的な武器に勝つ、そこに意義があるのだ。








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