安倍晋三とグレムリンな仲間たち

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安倍晋三総理大臣の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(通称「安保法制懇」)が、集団的自衛権を行使できるように憲法解釈の変更を求める意見書を安部総理大臣に提出することになった。この意見書は、日本をとりまく安全保障環境の変化を理由にして、集団的自衛権についての憲法解釈をめぐる従来の政府見解を覆して、日本が集団的自衛権を行使できるように、180度の方針変換をせまるものだが、そのことは、政府の解釈を憲法の明文規定よりも優先させるものとして、立憲主義からの大きな逸脱というべきである。

政府がどのような言辞を弄しようとも、日本国憲法の明文規定から、集団的自衛権の行使が許されるという結論は出てこない。それを無理を承知で引き出そうとするのは、結論がまずあって、それを合理化するための屁理屈をこねようとする以外の何者でもない。

法制懇の作成した文章を読むと、立憲主義への配慮とか、批判に対する反論とかは、一切書かれていない。書かれているのは、安全保障環境の変化を考えれば、集団的自衛権が是非必要だということだけである。つまり、彼らは、集団的自衛権の行使を、憲法上の問題として考えているわけではなく、単に自分たちの意見を述べているに過ぎないといってもよい。彼らの理屈によれば、日本の安全保障のために、憲法が足枷になるのであれば、それを改正する手続きをとるまでもなく、政府解釈で対応すべきだということになる。

彼らがこのような結論を出すであろうことは、あらかじめ誰にもわかっていた。というのも、彼らを採用した安倍晋三総理大臣自身が、この懇談会には「空疎な議論をする人は排除している」と語っていたからだ。つまり、自分と考え方の同じ人々を集めてきて、その人たちに議論をさせる。議論の中身は、どのようにしたら、安倍晋三のめざす政策を合理化できるかということだ。先ほどもいったように、結論がまずあって、それを合理化するための議論をする場所、それがこの懇談会の本質なのだ。

このように、自分と考えの同じものを要所要所に配置して、それらの者を通じて、自分の意思を押し通そうとするやり方は、安倍晋三という政治家の大きな特徴だ。

そんな安倍晋三とその仲間というべき連中を見ていると、筆者は「グレムリン」というホラー映画を思い出してしまう。これは、かわいい姿をした小さな怪物をペットのつもりで導き入れたところ、その怪物が本物の怪物に成長して、彼らの主人たちを困らせるという映画だった。

日本の国民も、最初は安倍晋三を好感できる政治家として、権力の舞台に導き入れたのであろう。ところが、国民がそう願っているわけでもなく、また、国政上のルールに違反しているにもかかわらず、安倍晋三は仲間たちと一緒になって、自分たちのしたい放題のことをやろうとしている。それがグレムリンを彷彿とさせるのだ。映画の中では、人間は最後にはグレムリンを制御することになっていたが、日本の国民は果たして、安倍晋三とその仲間たちとを制御できるであろうか。(写真は映画「グレムリン」の映像から)







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