民主主義の原型としてのギリシャ・デモクラシー

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民主主義(デモクラシー)という言葉がギリシャ語のデーモクラティアに由来するように、民主主義を議論する際に、ギリシャのデモクラシーの意義を軽視することはできない。そこで、ギリシャ人が、デーモクラティアという名前で何を観念していたかが問題になるが、それは文字通りに受け取れば、デーモス(民衆)のクラティア(権力)を意味した。つまり権力の主体が民衆であることを表す概念であったわけだ。その点で、権力の主体が一人である君主制、複数である貴族性との、対立関係において表象され、理解された概念である。

ギリシャ人の感覚からすれば、権力というものは、それを所有するものと行使するものとの間で区別はない。所有しているものが行使するというのがあたりまえのことであった。それゆえ、権力の主体である民衆がその権力の行使を代理人に委任するということは考えられなかった。これは、我々現代人の感覚からすれば、代表制民主主議といわれ、ごく当然のことと考えられているが、ギリシャ人にとっては、権力の行使を委任するということは矛盾以外の何者でもなかった。権力の行使を少数の人々に委任すれば、それはもはやデーモクラティアではなく、貴族性へ移行しているのだと考えられた。したがって彼らには、我々の言う直接(参加型)民主政だけがあって、間接(代表型)民主政はありえなかったのである。

このような考え方は、アメリカ独立革命前夜のアメリカ人も共有していた。アメリカでは、植民地時代のニューイングランドを中心に、タウン・ミーティングといわれる全員参加型の集会が開催され、そこを舞台にして直接民主制が展開されていた。それゆえ彼らには、直接民主制がなにものかについて、実践的な認識があったわけである。こうした伝統を背景に、独立革命のさなかにフェデラリスト対アンティ・フェデラリスト論争が起こり、「純粋な民主主義」としての直接民主制が、フェデラリストにとっては恐怖の対象であり、アンティ・フェデラリストにとっては政治の理想的なあり方とされたのであった。

では、ギリシャにおけるデモクラシーはどのように実践されていたか。アテナイを典型とするギリシャのポリス社会は、自由な市民から構成されていた。そうした市民たちの自由な立場を支えたのが奴隷や女性たちであったということを割り引いて考えれば、彼らは、政治的立場においては完全に平等であったということが重要なポイントである。ポリス社会は一枚岩の社会ではなく、内部に経済格差や社会的不平等を抱えていたが、こと政治に関しては、すべての(自由)人が平等に取り扱われた。これをギリシャ人はイソノミア(政治的平等)と呼んだ。このイソノミアこそが、ギリシャの民主主義のエッセンスであり、ギリシャの民主主義は民衆の政治的平等を最大の特徴としていたのだと、アーレントも言っている。

このように、ポリスの自由人たちは、政治的には平等であったが、実質的にはどのような政治を行っていたのかが問題になる。ここでよく引き合いに出されるのが、ギリシャの民主政を「衆愚政治」とする見解である。これは、プラトンによってもっとも強く主張された意見だが、彼がそうした意見を抱くようになったのは、彼の出自が貴族階級であったということを度外視すれば、師ソクラテスの運命に接したことであったろう。ソクラテスは、いわば民主政における衆愚政治の犠牲者として死んでいった、そうプラトンは考えて、民主政に敵対的な態度をとるようになり、理想的な政治として、賢明な君主による統治を推奨したのであった。

プラトンが、アテナイの民主政を衆愚政治と罵ったのは、それが人間性の偉大な価値について無知だと気づいたからだった。もしも彼らがそうした価値について認識していたならば、偉大なソクラテスを有罪にするはずがない、というのである。

政治には、誰による政治か、という問題領域のほかに、誰のための、何を目的とした政治なのか、という問題領域がある。誰が権力を行使するかを決めても、それで政治の具体的な内容が決まるわけではない。現代的な感覚からすれば、政治の究極の目的は、人々の人間らしい自由な生き方を保障することだということになり、それを実現する原理として、基本的人権の法理とか、立憲主義とかいうものがある、ということになるのであろう。だが、ギリシャの時代には、基本的人権などという意識はどこにもないし、権力の制約をめぐる七面倒な議論もなかった。そもそも政治には、特有の目的があるという観念が、ギリシャ人にはなかったわけだ。その結果、彼らはソクラテスを有罪にしても、良心の呵責を感じなかったのである。

こんなわけで、ギリシャのデモクラシーとは、権力の行使を誰がするかにのみ着目した、かなり狭い概念だということがわかる。デモス(多数者としての民衆)が権力を行使する、それがデモクラシーという言葉の意味である。それは、成員による直接参加を前提にしている点で、今日の代表制民主主義とは決定的に異なっている。代表制民主主義と直接民主主義とでは、民主主義という同じ言葉を使っているが、内実においては、共通するところよりも、相違するところのほうがはるかに多い。

にもかかわらず、ギリシャのデモクラシーは、現代のデモクラシー論にも巨大な影響を及ぼし続けている。その理由を考えることで、民主主義についての理解を深めるきっかけをつかめるのではないか。






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