麻生太郎副首相のいじめ談義

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先日、麻生太郎副首相が、いじめについて持論を展開し、「学校で一番いじめられるやつっていうのは、けんかは弱い、勉強もできない。しかも貧しい家の子」といったというので、ちょっとした話題になった。麻生副首相は、こういうことで、日本も外国から喧嘩が弱いと思われたらいじめられるから、喧嘩が強いんだということをわからせなければならない、という意味のことを言いたかったのだろう。

この言い分には一理ある。いじめられやすい子どもにはたしかに共通項がある。それは弱者だということだ。強い者は、相手の攻撃に対して反撃する能力があるから、そういうものを相手にいじめようとすると、いじめる側は相応の反撃を覚悟しなければならない。ところが、反撃する能力を持たない弱虫は、いくらいじめてもいじめっぱなしですむ。その安心感が、いじめを歯止めなく進めさせる。

子どもの世界でいじめが発生する図柄というのは、親たちの世界のコピーみたいなものだ。親たちの世界でも、強い者が弱い者を迫害して、しかもそれが当たり前のようになると、強い者が弱い者をいじめるのは、別に悪いことではない、と言うことになりがちだ。また、そういうふうに子どもが受け取るようになるのも無理はない。

こんなことを言い出したのは、新藤兼人監督の映画を見たのがきっかけだ。「竹山ひとり旅」という映画の中で、盲目となった少年が、学校の悪餓鬼たちからいじめられる場面がある。いじめている餓鬼たちには、いじめが悪いという意識はない。目が見えないというハンデを抱え、しかも喧嘩も弱いとわかった無力な少年は、いじめるのが当たり前なのだ。すくなくとも、いじめる側の子どもたちはそう思っている。だから、大人からたしなめられても、ケロッとしている。そこには罪の意識はない。

こうしたことの背景には、盲目の人間は乞食となって人にさげすまれながら生きるほかはない、といった社会の現実があった。そうした社会では、盲目の弱者は、往々として迫害の対象になる。大人の社会でそうした迫害が当たり前のように横行すると、それを見ている子どもたちが、真似をするのも無理はない。

このことからいえることは、人間の差別がビルトインされているような社会には、いじめがつきものだということだ。

一方、麻生副首相が心配しているらしい国際関係はどうか。そこでも、力の弱い国は力の強い国によって一方的な攻撃の対象になりやすいのか。麻生副総理は、そうなのだと言いたいらしいが、そうとばかりでもあるまい。国際関係というものは、戦争する能力だけがものを言う世界ではない。外交にも大いに左右される。外交にも暴力の要素は否定できないが、最終的にものをいうのは、知恵だ。知恵のないやつが、暴力に訴えれば、かえって国を亡ぼすこととなる。それは、かつての日本が身を以て体験したことだ。







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