原爆の子:新藤兼人の映画の世界

| コメント(0)
j.shindo01.bomb.jpg

新藤兼人の映画「原爆の子」は、原爆災害を正面から取り上げた世界で始めての映画である。この映画は日本公開の翌年(1953年)にカンヌ映画祭に出品されたが、アメリカの対日感情の悪化を恐れた日本の外務省が、何かと妨害工作をしたというのが語り草になっている。その後、英国アカデミー賞を始め数々の賞を取り、原爆をテーマにした映画の古典として、いまでも上映されている。

新藤はこの映画を、永田新が編纂した原爆体験の作文集をもとに作ったが、自分自身広島の出身者として、原爆は他人ごとではなかったという。それゆえ、この映画には新藤の個人的な体験や思いも込められているのだと思う。

映画は、原爆投下とそれに伴う災害を直接に描いているのではなく、原爆災害を生きのびた人々の、6年後の様子を描いている。主人公の女性(乙羽信子)は、原爆投下時、幼稚園の教師をしていたが、一家四人のうち自分だけが生き残り、いまは瀬戸内海の小さな島で小学校の教師(石井先生)をしているということになっている。その彼女が、数年ぶりに広島に戻り、かつての教え子のうち生き残った三人を訪ね歩くというのが、おおまかな筋である。

彼女が船に乗って広島の町に近づいていく。そこで写される広島の町は、瓦礫の中に家が建ち始め、復興の息吹と災害の痕跡とが不思議に溶け合う空間として描き出される。彼女が家族と共に住んでいた家は、いまだに瓦礫の山である。その瓦礫の山を眺めながら、原爆当時のことを思い出す。

その日の広島は快晴で、青い空が広がっていた。空襲警報が解除されて安心した人々が、勤めや学校に向かう忙しい時間帯、突然B29が突然上空に現れて一発の原子爆弾を降下した。その直後の惨状。被爆した人々の痛ましい様子や、熱風によって吹き飛ばされ、その後に不気味な影を残した人のことなど、いくつかの場面が映し出される。しかし、そのメッセージの発し方は控え気味で、大袈裟なところはない。それでいて、原爆の非人間性が直感的に伝わるようになっている。

広島の町を歩いている途中、彼女は一人の乞食(滝沢修)と出会う。顔が焼けただれ目が見えないその男は、昔彼女の父親の会社で働いていた男であった。同情した彼女は、男の家まで同行して、被爆後の様子を聞いたりする。この映画は、その男とのかかわり合いと、昔の教え子のうち生き残った三人の子どもとのかかわりを巡って展開していく。

彼女は、昔幼稚園の同僚だったという女性の家に間借りし、そこを拠点にして、生き残った三人の子どもたちを訪ねまわる。一人目は男の子で三平といった。彼女がようやくその家を訪ね宛てていくと、ちょうど父親が死ぬところであった。この父親は原爆症で死んでいくのである。

二人目は女の子で敏子といい、ある教会に保護されていた。その子も重い原爆症にかかっており、余命いくばくもない様子である。その子が、ベッドに寝そべりながら、人々のためにお祈りする姿に、彼女は深い感動を覚える。

三人目はやはり男の子で、平太といった。その子の家を訪ねると、兄弟4人でつつましく暮らしている。両親は原爆で死んでしまったが、兄弟が支え合いながら暮らしているのだ。そんななかで、姉がこれから嫁入りするのだと紹介される。彼女も被曝して足を大怪我したのだったが、そんな彼女でも以前の婚約を守って結婚してくれる人がいると聞かされ、彼女は一筋の光明のようなものを感じる。

原爆でひどい目に会ったのは、この子たちだけではない。彼女の同僚の女性も、原爆症のために不妊症になってしまったといい、そのために養子をもらう決心をしたと語る。彼女自身も、腕に大怪我をし、その時の異物がいまでも腕に突き刺さったままだ。それを抜かないでいるのは、原爆の記憶をなくしてしまわないようにするためだ、と彼女は自分自身に言い聞かせるように語るのである。

これに並行して、乞食の男の不幸な運命が語られる。この男には一人の孫がいて、その孫だけが男にとっては生きがいである。その孫を男は孤児院に預かってもらっているのだが、その様子を見に行った彼女は、子どもの様子に同情して、自分が引き取って面倒を見たいと言い出す。しかし男は、孫だけが生きがいだから、取り上げないで欲しいと言って受け付けようとはしない。

しかし男は、最後には手放す決心をする。だが孫の方は祖父と別れるのは嫌だと言って駄々をこねる。そこで男は、いやがる孫をなだめすかして彼女のもとへ使いにやり、その間に、自分の住んでいる小屋に火をつけて焼身自殺を図るのである。

こうして、夏休みの間の短い滞在を終えた彼女は、小さな子どもを連れて瀬戸内海の島へと帰っていくのだが、その表情にはなんともいえない無常さが漂っているように見える。嘆いても始まらぬものを嘆いてもしかたがない、しかし嘆かずにはいられない、それが人間の業なのだ、といっているような表情なのである。

そんなわけで、この映画は、乙羽信子という女優の演技に大分支えられているところがある。彼女の演技には、仕草にも言葉にもわざとらしいところがまったくない、それでいてドラマティックなところを感じさせる。それは、彼女の眼が、真実と直面していると感じさせるからだろう。真実というものは、どんなに受け止めがたいものであっても、真実であることをやめるわけではない。ならば、少なくともそれを直視しよう。でなければ前へは進めないから。彼女の眼はそう言っているかのようなのである。

なお、乙羽信子という女優は、新藤兼人の監督デビュー作「愛妻物語」に出演して以来、死ぬまで新藤作品に出演し続けた。








コメントする

アーカイブ