おさげ髪の少女:モディリアーニの肖像画

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1918年の春、モディリアーニはジャンヌと共に南仏に向かった。ひとつには戦争が激化し、パリにいることが危険になってきたので、疎開するという意味があった。もうひとつには悪化する一方の健康という問題もあった。結核に苦しんでいたモディリアーニにとって、南仏での生活は転地療養の意味もあった。そうすすめるゾボロフスキー夫妻ともども、モディリアーニは南仏への移動を決意したのだろう。1919年の初夏まで、モディリアーニはおもにニースで暮らすのである。

南仏で、モディリアーニはモデルを申し出てくれた無名の人々を描いた。それらの人々は、それまで描いてきた友人・知人たちとは違って、強烈な個性を主張しなかった。モディリアーニもまた、彼らに対して個性を前面に出すようには求めなかった。モディリアーニは彼らを、自分の様式に当てはめることで、かなり類型的な表現に徹したのだった。そうした類型的な様式性は、友人・知人を描く時にも、多かれ少なかれ見られたものだが、ニース時代にはより徹底したものになったのだといえる。

これは、そうしたモデルの一人で、名前も伝わっていない。南仏で描いた作品の中では、結構リアリティを感じさせる。目は塗りつぶされておらず、小さく開いた口からは白い歯が覗いている。モディリアーニはたぶんこの少女が気に入って、ありきたりの様式処理で済ませるのではなく、本人の雰囲気が強く伝わるように工夫をしたのだろうと思われる。

(1918年、キャンバスに油彩、60×45.5cm、名古屋市美術館)







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