純粋言語:ベンヤミン「翻訳者の課題」

| コメント(0)
翻訳とは、他言語で表現されたものを母語で再現することだと思われがちだが、それを他言語から母語への意味内容の再伝達だと考えるならば、それは間違っている。翻訳には、単なる伝達をこえた何ものか、それをベンヤミンは本質的なものといっているのだが、そして本質的なものは伝達できないと考えているのだが、要するに伝達をはみ出た部分がある。それ故、「悪い翻訳は非本質的な内容を不正確に再伝達する」(「翻訳者の課題」野村修訳、以下同じ)とベンヤミンはいうのだ。

ベンヤミンがこんなことをいうのは、他でもない。かれは「翻訳者の課題」と題したこの小論を、ボードレールの詩集「パリの光景」(「悪の華」の一部)のドイツ語訳(ベンヤミン自身の訳)への序文として書いたのだったが、ボードレールの詩の翻訳は、たんなる意味内容の再伝達には留まらない作業だということを、言いたかったのだと思う。たしかにボードレールの詩の翻訳は、パソコンのマニュアルを翻訳するようなわけにはいかないだろう。パソコンのマニュアルに記されている言葉なら、その意味内容が伝わるように翻訳すれば、それで足りる。しかし、ボードレールの詩の言葉は、意味内容を伝えるだけでは不十分である。何故なら、詩というものは、意味内容だけに限定されたものではないからだ。つまり意味内容を超えたものを包み込んでいる。それをベンヤミンはとりあえず本質的なものと呼んだわけである。

何故そうなるのか。マニュアルのような技術的なテクストは、読者に向けて書かれたものである。それは意味内容の伝達を必要かつ十分の条件としている。意味内容が誤解無く伝達されればそれですむのだ。しかし、詩はそういうわけにはいかない。詩は読者との関連のみにおいて存立するものではない。詩はそれ独自の自存した世界を持っている。極端に言えば、読者が存在しなくとも、詩は自存しうるのだ。これをベンヤミンは、「芸術はいかなる個々の作品においても、人間から注目されることを前提としてはいない。じじつ、いかなる詩も読者に、いかなる美術作品も見物人に、いかなる交響曲も聴衆に向けられたものではないのだ」と、逆説的な言い方で表現している。

こういうと、ベンヤミンとは非常に特異な観念論者のようにも聞こえる。たしかに、詩が(読者を前提せず)それ自体として独立した存在として自存しているなどといえば、プラトンの時代ならともかく、20世紀の人間が考えることとは聞こえない。だが、ベンヤミンがここで言っていることは、詩がプラトンのイデアのように実在しているということではない。詩というものは、それを書いた作者とも、またそれを読む読者とも直接関連しないような、ある独自の世界を背景にして存在しているということを、ベンヤミンはいいたいらしいのだ。詩を含めた芸術作品は、それを作った人間の個人的な創作の営みだけから生まれたものなのではなく、過去の伝統を背負っていたり、作者が生きている時代の精神を反映していたりするし、また後続する世代へと受け継がれていくものである。ということは、詩を含めた芸術作品は、それ自体のうちに、時代を超えた普遍的なものを内在させている。それをベンヤミンは本質的なものというわけだが、その本質的なものとは、客観性をも主張しうるものなのだ、とベンヤミンは考えるわけなのだろう。

翻訳とは、他言語で書かれたテクストに内在する本質的なものを母語のなかで表現することだといえる。この表現の仕方は、たんなる意味内容の伝達ではありえない。何故なら、芸術作品には伝達され得ないものが残っているからであり、伝達され得ないものは創作するほかはないからだ。創作といっても、原作とは全く違ったものを創作するわけにはいかない。それではもはや翻訳とはいえなくなるからだ。翻訳であってなおかつ創作でもあるようなもの、それこそが理想的な翻訳なのだ、ということになる。

何故そんなことが可能なのか。それは現実の諸言語の間に、なにものか共通する要素があるからだ、とベンヤミンは推測する。共通するものがなければ、あるものを別のものに移し替えることはできない。AがBと同じものだといえるのは、両者に共通する要素があるためだ。この共通する要素をベンヤミンは「親縁性」と名づける。

「翻訳の合目的性はけっきょく、諸言語相互間のもっとも内的な関係の表現にとってのものである・・・諸言語間のあのもっとも内的な関係は、独特な収束の関係である。それは、諸言語が相互に無縁ではなくて、あらゆる歴史的な関係を抜きにして先験的に、それらが語ろうとするものにおいて親縁性をもつところにある」(同上)

親縁性とは、個別の諸言語の間に横たわる共通性のことを指している。この共通性があるから、Aという言語からBという言語へと翻訳することが出来る。逆説的に言うと、この共通するものが先にあって、それがAという言語や、Bという言語の中に表現されるということもできる。翻訳は、ただ単にAという言語をBという言語に移し替えるにとどまらず、Aという言語の中に潜んでいるこの共通するもの、それをBという言語のうちに再現する行為なのだということになる。この共通する者をベンヤミンは「純粋言語」と名づける。

「歴史を超越した諸言語の親縁性は、あげて、完全な言語としてのおのおのの言語において、ひとつの、しかも同一のものが、思考されている点にある。そうはいってもこの同一のものは、個別的な言語のいずれかによって到達されるようなものではない。それは、諸言語の互いに補完しあう志向の総体によってのみ到達可能なもの、すなわち純粋言語である」(同上)

重ねていうと、「翻訳において原作は、いわば言語のより高次でより純粋な気圏のなかへ伸びていく」(同上)わけである。

ここで、純粋言語と個別の諸言語との関係が問題になる。純粋言語は個別の諸言語の底に横たわる共通するなにものかであるのだが、その共通する何ものかは、それ自体として可視的に存在するわけではない。そんなものが存在するとしたら、言語が諸言語に別れる意味はなくなる。純粋言語は、あくまでも具体の諸言語を通じてしか存在することができない。諸言語を離れた純粋言語なるものは存在しないのだ。だからこそ、翻訳が意味を持つ行為となるのだ。

ここでボードレールの詩の翻訳に話を戻すと、翻訳者の課題は、詩の中に潜んでいる純粋言語を、つまり詩における本質的なものを、Aという言語から引き出したうえで、それをBという言語の中で再現する。だから、それは高度に意識的な行為にならざるを得ない。原作の中にある本質的なものは、もしかしたら原作者によっては、そんなには意識されていないかもしれない。しかし翻訳者は、この本質的なものを意識的に把握しないでは、それを他の言語の中に移し替えることはできない。だが、彼がこの本質的なものを十分に把握したうえで、それを母語の中に移し替える作業をする時、それは単なる言葉の入れ替えに留まらず、創造的な行為としての色彩を帯びる。翻訳は単に技術的な作業ではないのだ。それだからこそ、優れた翻訳にはそれ独自の価値がある。その価値は、ある意味原作とは関係ないものだ、とベンヤミンはいう。そうした価値をもたらすのは、翻訳が純粋言語と言う至上の言語を常に意識していることの結果なのだ。

この至上の言語と個別の諸言語との関連を説明するのに、ベンヤミンはマラルメの言葉を引用している。

「諸言語はいくつも存在するという点で不完全であり、至上の言語はない。思考することは、小道具を用いず、ささやくこともせずに、沈黙のうちで不滅の言葉を書くことだが、地上の諸言語の多様性は、さもなければ一挙に見いだされるはずの言葉、具体的に真理自体である言葉が、ひとの口をついて出ることを妨げている」(マラルメ)

地上にはさまざまな言語が存在しているが、それらを貫いて、ある共通するものが存在する。それが純粋言語である。個別の諸言語は、それの不完全なあらわれであるとみなすことが出来る。だが、個別の言語の中では不完全にしか現れえない純粋言語も、翻訳の過程を通じて意識化され、他の言語に移し替えられる中で、より完全な形になる可能性がある。翻訳とは、言語の表現をより完全なものにしていくための、ひとつの、しかも有力な行為なのだ。

「他言語のなかに呪縛されていたあの純粋言語を改作の中で開放することが、翻訳者の課題である」(同上)

こう言ってベンヤミンは、個別の諸言語と純粋言語との関連をあらためて強調するわけだが、純粋言語そのものの内実については突っ込んだ議論をしていない。それでもなお、この論文の最大の功績は、諸言語の基底に横たわる純粋言語を取り出した点にある、ということはできよう。


関連サイト:知の快楽 






コメントする

アーカイブ