藤原彫刻総論

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平安時代後半の美術を藤原美術といったり、仏像に代表される彫刻類を藤原仏とか藤原彫刻といったりする場合がある。厳密に言えば、平安時代のうち藤原氏の時代は十一世紀末までの百数年間であり、それ以降鎌倉時代に移行する十二世紀末までの約百年間は院政の時代なのであるが、それをも含めて平安時代後半の彫刻類を藤原彫刻というのには一定の理由がある。この時代を通じて彫刻のモチーフが阿弥陀如来を中心とした浄土信仰を反映したものであること、また、その様式に共通性が認められることなどである。

浄土信仰については、天台宗を創立した最澄自身がその原初的な形態を日本に持ち込んでいたのであるが、十世紀の後半になると、その天台宗の中から、阿弥陀信仰を中核とする浄土教の動きが活発化した。空也上人による念仏や、良源によるもっと体系的な浄土教の運動がそれを先導した。

浄土教が普及した背景には、仏教の末法思想というものがあった。末法というのは、釈迦入滅後、正法、像法各千年間に続く一万年の時代をいうもので、それが藤原時代に始まるのだと意識された。この時代には、人々は阿弥陀を念じて称号を唱えることでしか救われないと感じ、死後の安楽を祈るために競って念仏を唱えた。こん時代に大量に作られた阿弥陀如来像は、念仏をささげる宗教的な対象として作られたのである。

したがって、この時代の仏像や彫刻類は、そうした人々の信仰と深いかかわりを持つことで、或る意味世俗的な雰囲気を帯びていた。密教以降、仏教が世俗化したといっても、まだまだ末端の民衆にまで浸透しなかったことに比べれば、この時代の仏教は大衆の間に広く、深く浸透したわけで、そうした大衆化が、仏像の中にも色濃く反映されるようになった。つまり、この時代の仏教は、大衆の日常生活の延長上に成立し、それにともなって仏像も、日常性の中での理想化を追求するようになった。

このような藤原時代の彫刻を前時代のそれと比較して、加藤修一は次のようにいっている。「飛鳥仏の精神性、天平仏の写実的な身体性、平安初期の肉感的超越性から、藤原仏の日常性の中での理想化に至る」

こうした動きは、仏教が大陸から伝来した外国の宗教として出発しながら、次第に日本人の心の中に受け入れられ、ついには一般大衆の心をつかむに及んで、世俗化・日常化したというふうに概括できる。

藤原仏の殆どすべては木彫りであり、しかも巨大なものが多い。平安時代初期からすでに木彫りが圧倒的になっていたが、藤原時代になると、それが巨大化したのである。その背景には寄木造の技法が普及した事情がある。藤原時代の初期までは一木作りが主流であり、したがって仏像の大きさも或る程度の規模に制限されざるを得なかったのが、寄木作りによって、その制限がなくなり、仏像も巨大化したわけである。もっとも、東大寺の大仏のような巨大さではなく、せいぜい丈六(4.8メートル)ほどであったが。

藤原彫刻の大成者として、定朝が有名である。定朝は仏師康尚の後継者として、主に道長の造営した法成寺の諸仏像を作ることに生涯の殆どを費やしたが、いまに残っているものは少ない。残っているものの中で最も重要な意義を持つのは平等院鳳凰堂の阿弥陀像である。この像を通じて伺われる彼の作風は、人間のリアルな姿をベースにしながら、それを最大限理想化しようとするもので、理想化された人間のイメージを感じることができる。それゆえ、精神性の強調とかデフォルメとかいったものは感じさせず、あくまでも現実の人間の延長としての如来の姿を感じることができる。それは見る人にとっては、浄土に生まれ変わった自分自身の姿でもあるのだ。

それ以前の彫刻類が、原則として仏師個人の勢作になるのに対して、定朝の場合には、多くの弟子を動員した共同制作という色合いを強くした。それは、一方では仏像が巨大化したことと、もう一方では、仏像に対する需要が飛躍的に増大したことを反映していると考えることができよう。

関連サイト:日本の美術 






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